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人は幸せへ切磋琢磨を ~張本勲さん古里広島で語る~

■編集委員 西本雅実

 張本勲さん(70)は韓国名を張勲(チャンフン)という。広島市生まれの在日2世であり、被爆者でもある。いわれなき民族差別や放射線後障害の不安と闘い、首位打者7回、通算3085安打などのプロ野球記録を打ち立てた。古里広島への愛着は深く、核兵器の廃絶と分断が続く朝鮮半島の平和を願う思いは強い。広島で語った証言を伝える。

被爆の記憶

うめき声、異様な臭い 鮮明に

 広島へは、おやじは先に住み着いていた弟に促され来たそうです。一緒にリヤカーを引き、くず鉄や古道具を売った。これならやっていけると、おふくろや兄貴、姉2人を呼び寄せた。1939年の春と聞いています。

 生まれたのは大洲町(現南区大州)です。猿猴川に今も架かる東大橋の近くに朝鮮人が住む長屋があった。物心がつくと土手で遊んでいた。それが4歳の冬、サツマイモを友達と土手で焼いていたらバックしてきた三輪トラックにはねられた。右手をたき火で大やけどし、薬指と小指がくっついた。運転手は逃げ、みかねた叔父さんが警察へ訴えたが「朝鮮人じゃないか」と追い返されたそうです。

  父の張相禎(サンジョン)さんは慶尚南道昌寧(キョンサンナムドチャンニョン)郡、母の朴順分(パクスンブン)さんは同陜川(ハプチョン)郡の出身。1910年の韓国併合により広島への移住者は20年代半ばから増え、張本さんが生まれた1940年県内には約3万8千人が居住(内務省記録)。日米開戦で朝鮮半島へも44年に適用された徴用令が加わり多数の韓国・朝鮮人が広島で被爆する

 原爆は段原新町(爆心地から約2.3キロ)の長屋で遭いました。ピカーッと光りドーンとものすごい音がして気がつくと、おふくろが私と三つ上の姉さんに覆いかぶさり、背中はガラス片で血まみれ。「逃げろ」と朝鮮語で言われ、ブドウ畑へ走った。人のうめき声、異様な臭いは65年たってもはっきり覚えています。畑には何十人もいました。そばのどぶ川に叫び声を上げて飛び込む人を見に行こうとしたら、おふくろに止められました。

 上の姉さんは比治山かどこかへ動員されていたそうです。兄貴らが捜して回り担架で連れ帰った。自慢の姉でしたが顔も無残に焼かれ、人間がこんな姿になるのかと…。焦げたブドウの実を姉さんの口元に持っていったのも覚えています。何日たったでしょうか。おふくろの泣き声がして姉さんが死んだのを知りました。

  張点子(チョムジャ)さんは、広島市の原爆慰霊碑に納められる「原爆死没者名簿」に登載されていた。申請書によると、被爆場所は鶴見町(中区)で12歳。比治山の西側の鶴見町一帯では、建物疎開作業に第一国民学校(現在の段原中)の生徒らも動員されていた。張本さんは姉の死没記録を今回初めて確かめた

 あー、間違いなく姉さんです。兄貴(世烈(セヨル)さん。96年に64歳で死去)が申請したのでしょう。おふくろは日本語を書けませんでしたから。文化の違いですかね。おふくろは姉の遺品は一切残さず、死ぬまで(1985年に83歳で死去)姉のことは私らに話しませんでした。70歳になって姉さんが被爆した場所が分かった。本当によかったです。

段原の少年時代

母の苦労見てプロ選手決意

 戦争は終わったが原爆で家はない。東大橋の下に同胞家族らとしばらく住んでいました。おやじは長男だったので先に韓国へ戻ったが死んでしまった。広島から出ていたヤミ船が下関沖で転覆したのを聞いた、おふくろは私らの身を案じて帰国を諦めた。東雲町(南区上東雲)で借りた6畳一間で、親子4人が暮らす生活が始まりました。

 おふくろは、兄貴が闇市で仕入れてきた鶏肉などを見よう見まねでホルモン焼きにして、どぶろくも出した。寝顔を見たことがないほど必死で働き、育ててくれました。

 私といえば、比治山小に上がるころからわんぱくでしたね。持って生まれた気性もあるが体も大きかった。夏はパンツ一枚になって猿猴川で泳いだ。朝鮮人の友達をいじめる上級生にも立ち向かった。段原(地区)の路地では、ぱっちん(メンコ)やラムネ(ビー玉)もしていました。

 野球を始めたのは5年生です。たまたま近所のお兄ちゃんに誘われ、いきなり二塁打を打った。興味を持ち、せがんでするようになった。右手は手術をしても指の自由が利かずボールを遠くに投げられない。壁に向かって練習し、完全に左投げ左打ちにした。

 そのころ(1950年)広島カープができ、南観音町の総合球場(西区の現コカ・ウエスト広島球場)に、あこがれの川上哲治さんや青田昇さんが来る。金がないから球場の外の木によじ登って観戦した。宿舎をのぞくと銀しゃりにステーキです。分限者ぶりに驚いた。プロ野球選手になろうと決めたきっかけです。

 もっとも段原中に当時プールがあれば水泳部に入ったかもしれません。幸か不幸かなかった。練習を積み、3年生になると、広島商業へ入り甲子園で活躍したいと思った。翠町中(南区)から広商に進んだ2級上の山本一義さん(後にカープの主砲)に声を掛けられ練習に参加したが、入試は不合格でした。段中のグラウンドは狭くサッカー部との取り合いで上級生を殴ったことがあり、乱暴者だと広陵高からも断られた。

 松本商(現瀬戸内高)の食堂で働きながら夜間部に通い野球を続けたが、どうしても甲子園に出たい。2学期に大阪の強豪浪商(現大阪体育大浪商高)に転校しました。松商の監督は化けると認めてくれました。兄貴は「このままではろくなモンにならん」と母を説得し、タクシー運転手の給料から仕送りをしてくれた。3年生のときチームは夏の甲子園へ出場をしたが、その前に起きた不祥事の責任を私は押しつけられ、休部が続いていた。野球部長が韓国人を嫌った。差別だと思った。正直荒れました。

 その1958年夏です。韓国を初めて訪れた。在日高校生選抜チームの4番としてソウルに降り立ち、「アリラン」「トラジ」の演奏で出迎えられた。胸がきゅーんとなりました。おふくろの生まれた国だ、俺は韓国人なんだと認識しました。大邱(テグ)から馬山(マサン)に行く途中のおやじの里も訪ね墓参りもできた。祖父母は健在で、おばあさんに何度も顔をなでられました。私にとって韓国は生みの親、日本は育ての親です。そして生粋の広島県人だと思っています。

平和への訴え

核廃絶会議 被爆地で開いて

  1959年パ・リーグの東映フライヤーズに入団し、新人王を獲得。1961年には初の首位打者となり、翌年には最優秀選手(MVP)に輝き日本シリーズを制する。「安打製造機」と呼ばれる中の1966年に被爆者健康手帳を取得していた

 契約金200万円から100万円を兄貴に渡し、段原日出町に53坪の土地を買い家を建てました。6畳一間からおふくろを連れ出すと決めていましたから。右手のハンディはプロでは致命的です。ゲームが終わってもバットを振らないと気がすまない。プロ生活23年間、引退の前日まで振り続けましたね。

 手帳は兄貴に勧められ取った。原爆症はいつ出るか分からない。シーズン中は必死ですから気にしなかったがオフの健診は嫌でした。ひょっとしたら…その恐怖感は今も頭をよぎります。私ら被爆者は「終戦」になっていないと思いますよ。

 選手時代に被爆は隠したわけではなかったが、聞かれもしないのに言う必要はないと思っていました。子どものころ、原爆に遭ってない人がケロイドの人をおかしな目で見た。「近寄ったらうつる」と間違った風潮がありました。(1976年)巨人に移ると(旧)市民球場で試合があり、行き帰りに原爆ドームが見える。あの日のことや姉さんの死をどうしても思い出しましたね。

 被爆したことを話すようになったのは65歳のころからです。若い人がテレビで「戦争は知らない、関係ない」と答えているのを見て、とんでもないと腹が立ちましたね。

 原爆で多くの人が犠牲になったことを忘れてはいけません。比治山が盾となり私は生き延びたが、姉は死んだ。原爆の体験者として話せる最後の世代だし、メッセージを残す務めがあると思いました。核兵器をなくす署名に賛同し、平和団体の呼び掛けにも応じるようになったんです。

 人間の命と核兵器を持つことのどっちが大事か? 天と地の開きがありますよ。一生懸命に生きている人間を一瞬のうちに殺す兵器があることは、人間のなせるわざではない。

 北朝鮮の核実験や韓国への砲撃を聞くと悲しくなります。同じ民族が大国の思惑で引き裂かれ、いがみ合う。北朝鮮は核開発をやめるべきです。それには大国が核を捨てないと説得力に欠ける。

 オバマ大統領や世界の指導者には、広島・長崎の原爆資料館を見てもらいたい。尊敬する親や愛する妻や子が、核が使われたらどうなるのかと真剣に考えてもらいたい。核をなくす会議を被爆地で開き人類のために知恵を絞ってもらいたい。人間は、殺し合いではなく幸せに向かって切磋(せっさ)琢磨(たくま)するべきですよ。


はりもと・いさお氏
 1940年6月広島市生まれ。通算打率3割1分9厘、504本塁打、1676打点。1990年野球殿堂入り。1982年の韓国プロ野球の創設と発展にも尽力した。東京都大田区在住。

(2011年1月4日朝刊掲載)

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