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社説・コラム

『言』 終わりなき公害問題 成長優先の社会 転換を

◆環境経済学者・宮本憲一さん

 環境経済学者の宮本憲一さん(84)が「恐るべき公害」(岩波新書)を世に問うて半世紀になる。大気汚染や水質汚濁などの問題は克服される一方、アスベストや放射能被害に代表される「ストック型公害」が新たに噴き出した。「公害問題は終わっていない。常に成長優先に回帰する日本社会の仕組みが変わらなければ」と訴える宮本さんに聞いた。(聞き手は論説副主幹・佐田尾信作、写真・浜岡学)

 ―「公害」や「企業城下町」という言葉は「恐るべき公害」を機に、広まったと聞きます。
 1949年にできた東京都工場公害防止条例に「公害」とあります。しかし、当時は概念があいまいで、欧米の法律では財産権の侵害に近い意味でした。その後、日本では基本的人権の侵害につながる問題になる。そこに踏み込んで考えようというのが「恐るべき公害」でした。

    ◇

 ―本紙を含む全国の地方紙から1年間記事を追い、巻頭に「公害地図」を載せています。
 国への陳情統計しかない時代でした。戦前の公害は局地的で農漁業被害が中心ですが、戦後は臨海部を中心に列島全体に及び、住民の健康や暮らしを脅かすようになります。全く新しい問題ゆえ、政官学のいずれも対応が立ち遅れていたのです。

 ―出版から3年後の67年に公害対策基本法ができます。
 当初の基本法は経済成長との調和を定めたが、より厳しい都条例が美濃部都政の下で生まれます。それに押されるように佐藤政権末期の70年、いわゆる「公害国会」で公害関係14法が成立するのです。当時は世界に先駆けた法体系であり、政権党も世論の高まりに対し、自覚と責任を示した証しでしょう。

 ―今では産業構造も企業の意識も大きく変わりました。
 確かに国の政策も国民の関心も、公害から地球環境へと移りました。しかし、「公害問題は終わった」という言説には異議がある。有害物質の発生源を断てば収束する「フロー公害」に対し、アスベストや放射能に代表されるストック型公害はむしろ深刻になるばかりです。

 ―なぜ、ストック型と呼ぶのですか。深刻である理由は。
 過去の廃棄物による有害物質が漏出したり、暴露後は長期間体内に蓄積して発病するからです。アスベストは建材を中心に3千種類の商品に使われ、15年から40年を経て発症します。阪神大震災のがれき解体・撤去による影響も出始めています。その教訓から、私は東北の被災地に足を運び、警鐘を鳴らす冊子を自治体に配りました。さらに懸念されるのは、原発の放射性廃棄物の問題です。

    ◇

 ―放射能汚染は危惧されていた問題です。公害として規制できなかったのでしょうか。
 実は公害対策基本法ができる時、放射能を含めよ、という意見が政治家や官僚の間にもあったのです。しかし放射能被害を公害と認めながら、規制は原子力関係法に任せてしまった。93年に環境基本法ができる時にも議論したのですが、やはり公害対策基本法を踏襲してしまったのです。現在は原発事故の反省から環境基本法の対象となり、大気汚染防止法など個別法の整備がなされる見通しです。

 ―原子力が重化学工業以上に国策だったからでしょうか。
 日本は広島、長崎、ビキニとみたび核の被害をこうむりました。私たち社会科学者も自然エネルギーへの転換を主張してきましたが、国策に沿って動く巨大な科学―つまり原子力ムラの前に力不足で世論を動かせなかった、という悔いは残ります。コミュニティーを崩壊させ、12万人が今なお避難を余儀なくされている福島の原発事故は、史上最悪の公害と言えます。水俣や四日市の公害でも経験しなかった過酷な現実です。

 ―公害が「終わっていない」のは、そういう意味ですね。
 かつては住民、革新自治体、公害裁判、さらにマスメディアの力が政策を変えた。しかし日本の場合、他の国以上に成長優先へと回帰する政治や経済の仕組みは変わらなかったといえます。歴史の教訓が忘れ去られる中で積み残した問題が噴き出した。「持続可能な社会」は到来していないわけです。あらためて戦後の日本の公害の記録をたどり、世論や運動の力を取り戻さなければならないでしょう。

みやもと・けんいち
 30年台北生まれ。旧海軍兵学校78期、防府分校で終戦。復員列車から焦土の広島を目撃する。名古屋大卒。金沢大、大阪市立大、立命館大で教壇に立ち、01年から滋賀大学長1期。公害研究委員会(都留重人代表)に参画し、数多くの公害裁判で証人に立つ。近著に「戦後日本公害史原論」。「恐るべき公害」は庄司光氏との共著。京都市右京区在住。

(2014年12月15日朝刊掲載)

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