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平和大通り 街支え半世紀 原爆からの復興象徴 カープVパレード・FF舞台 広島

 広島デルタを東西に貫く平和大通りが5月、全通から半世紀を迎える。原爆の惨禍の上に復興した広島を象徴する「100メートル道路」。広島市民の営みを支え、歓喜の舞台にもなった通りの歩みを紹介する。(菊本孟)

 広島市南区の鶴見橋東詰めから西区の新己斐橋西詰めまで、ビル群を抜け、5本の川を越えて3・8キロ。幅16メートルの車道を1日約3万台が走り、歩行者4300人、自転車4800台も日中に行き交う。両脇にはそれぞれ20メートル余りの「グリーンベルト」。クスノキなど約2千本が植わり、都心に潤いをもたらす。

 幹線と憩いの場として根付く通りは、戦争の爪痕でもある。一帯は太平洋戦争末期、空襲による延焼を防ぐために防火帯を造る「建物疎開」で多くの家屋が壊された。あの日、片付け作業に動員された市内の中学生たち多くの学徒が犠牲になった。町も消えた。今も緑地帯の83カ所に慰霊碑や石灯籠が立つ。

 戦後、市は幹線に防災やレクリエーション機能を併せ持つ幅100メートルの道路を計画。1946年11月に小町(現中区)付近を整地し徐々に延伸。49年公布の「広島平和記念都市建設法」も追い風になり、原爆投下20年後の65年5月に完成した。

 75年に広島東洋カープがリーグ初優勝を果たし、平和大通りをパレード。約30万人が喜びを分かち合った。77年に、ひろしまフラワーフェスティバル(FF)が始まり、ことし39回目を迎える。2012年には、サンフレッチェ広島もJ1初制覇のパレードをした。

 この3日までは冬の風物詩の「ひろしまドリミネーション」の会場に。18日は天皇杯第20回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会(ひろしま男子駅伝)の発着点にもなる。ほぼ半世紀、中区富士見町に住む安井幸子さん(85)は「何もなかった通りが、だんだんとにぎわっていく姿が希望だった」。平和と繁栄の礎であり続けるよう、願う。

<平和大通りの歩み>

1945年 8月 原爆投下
  46年 2月 広島市復興審議会が発足し、幅100メートルの道路計画が動きだす
  49年 5月 衆参両院で広島平和記念都市建設法を可決
  51年11月 市民からの公募で平和大通りの通称が決まる
  52年 3月 故イサム・ノグチが欄干をデザインした平和大橋と西平和大橋が完成
  57年 2月 市が緑地帯の整備のため、樹木の提供を呼び掛ける
  65年 5月 鶴見橋東詰めから新己斐橋西詰めまでの約3.8キロが全通
  75年10月 広島東洋カープがリーグ初優勝し、パレード
  77年 5月 第1回ひろしまフラワーフェスティバル
  86年 8月 日本の道100選に選ばれる
  96年 1月 全国都道府県対抗男子駅伝競走大会(ひろしま男子駅伝)がスタート
2002年11月 おとぎの国をテーマにした「ひろしまドリミネーション」開始
  03年11月 ひろしま朝市が始まる
  05年 3月 平和大通り樹の会が発足
  12年12月 サンフレッチェ広島がJ1初制覇でパレード
  15年 5月 全通50年

市民の活動

ひろしま朝市実行委員会の委員長 福本邦雄さん(64)=安佐南区

産直市 都心に活気

 毎週日曜の朝、広島市中区富士見町の平和大通り南側の緑地帯で産直市を開いている。約20店のテントには旬の地場野菜がずらり。「都心に活気をもたらしたい」。ことしの「初売り」は11日だ。

 冬場のお薦めはダイコンやカブ、新米に、自家製の漬物。午前8時15分の開店前から買い物客が待ちわび、約1時間で完売する品物もあるという。

 2003年に周辺のにぎわいづくりを狙い、市や生産者たちの実行委員会が始めた。「地元住民の温かさに支えられている。都市と農村の交流を育む貴重な場所にもなった」

平和大通り樹の会の代表 六重部篤志さん(71)=安佐北区

木の美しさ伝える

 シラカシやアラカシ、クスノキといった緑地帯の樹木ガイドに取り組む。多くは1957~58年に広島市が呼び掛けた「供木運動」で国内外から寄せられただけに、「木の美しさに加え、平和への思いも伝えたい」と意気込む。

 竹屋公民館(中区)の樹木ガイドボランティアの養成講座をきっかけに、2005年に受講者で発足。自身は年に5回ほど依頼を受けてガイドをしている。月に1度、約40人の会員が集まって通りを歩き、樹木が枯れていないかなど状態も確認する。「メンバーを絶やさず、こつこつ続けたい」

(2015年1月5日朝刊掲載)

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