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あの恐怖 忘れられぬ 岩国空襲70年 終戦前日まで9回標的

 1945年3月19日、岩国沖の戦艦「大和」や現在の岩国市由宇町などが米軍の艦載機に狙われた最初の「岩国空襲」から70年。終戦前日までの間に計9回、一帯は攻撃の標的となった。岩国以降、光市や周南市など県内の沿岸部へと本土空襲は及んだ。当時を知る人は「思い出すと今でも胸が苦しくなる」と話す。(増田咲子)

 3月19日の米軍機の攻撃は岩国市史などにも記載がなく、死傷者を含む被害の詳細は分かっていない。

 郷土史研究家の村田昭輔さん(81)=同市由宇町=は岩国沖での交戦を目撃した。当時、由宇国民学校の5年生で通学途中だった。「空襲警報が鳴り、海の方を見ると対空砲火の煙で空が暗くなっていた。米軍機が打ち落とされていくのも見た」と記憶をたどる。

 由宇国民学校の3年生だった松本絹江さん(79)=同市尾津町=は、米軍機の機銃掃射を鮮明に覚えている。自宅隣の米穀店2階にあった穀物の干し場で、同級生と一緒にいた時だった。

 近くの山から米軍機が見えたかと思うと急降下。大きなゴーグルを着けた兵士が目に入った。次の瞬間、「ババババー」と音が響き、機銃掃射の赤い火が見えた。「撃たれるのではないか」。無我夢中で階下へ急いだ。

 父に話すと、警報の最中に防空壕(ごう)の外へ出ていたことを叱られ、口外しないよう言われた。「あの恐怖は一生忘れられない。子どもたちには二度と味わってほしくない」と振り返る。

 19日の攻撃は、主に呉軍港に停泊中の艦艇を狙っていたとされる。岩国への空襲について大和ミュージアム(呉市)の相原謙次統括(60)は「岩国には海軍航空隊もあり、空を制圧するためだったのではないか」と話す。

 市民団体「岩国空襲を語り継ぐ会」によると、岩国空襲は分かっているだけで3月19日~8月14日の間に計9回(大竹市、和木町も含む)。5月10日の岩国陸軍燃料廠(しょう)の空襲で300人以上が、8月14日の岩国駅一帯の空襲で500人以上が亡くなった。

<岩国空襲の日時と主な場所>

1945年3月19日 岩国沖、由宇町など
     4月 2日 大竹市栄地区の農場
     4月16日 岩国陸軍燃料廠発電所
     5月 4日 岩国沖
     5月10日 岩国陸軍燃料廠
     7月24日 黒島、端島、柱島
     7月28日 海軍第11航空廠岩国支廠
     8月 9日 岩国海軍航空隊
     8月14日 岩国駅一帯

(岩国空襲を語り継ぐ会調べ)

(2015年3月20日朝刊掲載)

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