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広島で被爆 故ルーメル神父、日記残す 原爆資料館展示

■平和メディアセンター編集部長 西本雅実

 広島で被爆したドイツ出身のクラウス・ルーメル神父(上智大名誉教授。3月に94歳で死去)が、市民の惨禍や救護の様子を直後に日本語で書いた日記を残していた。確認されている限り、外国人被爆者として最も早い時期に表された手記であり、貴重な記録だ。広島市中区の原爆資料館で15日から始まる企画展「生きる」で展示される。

 1945年8月6日当日の様子は同18日に4ページ、同24日に2ページにわたり書いていた。

 爆心地から北に約4.1キロ。現在の安佐南区の長束修練院で爆音を聞いた瞬間に始まり、やがて「火傷した負傷者が非度(ひど)く泣きながら走つて来ます。苦(し)がつて呻(うめ)きながら聖堂、応接間等で横になります」と、被災者が詰め掛けてきた様子をつづる。

 院長で医学の心得のあったペドロ・アルぺ神父(後にイエズス会総長、91年死去)と救護に努め、幟町(中区)の教会にいた神父らを捜しに向かう。「兵隊の叫び声が聞こえ、水、水と言つて居(お)ります」「あの大火事に照らされた景色を描くことが出来ません。破壊、死人、死にかかつてる人間…」と、自らも体験した「8月6日」を表していた。

 24日の記述からは、ドイツ人のルーメル神父らも、広島に定住して被爆した白系ロシア人9人が終戦後に移動を命じられた帝釈峡(庄原市)へ一時移っていたのも分かった。

 ルーメル神父は37年に来日。東京から広島へ疎開した年の45年6月から日本語で日記をつけ始め、上智大教授を務めていた84年まで断続的に書いていた。

 今年2月半ば、都内で被爆体験の証言を求められ、知人に日記を初めて見せた直後に入院。3月1日肺炎のため死去した。上智大名誉教授のF・J・モール神父らが企画展に協力し日記を貸与した。

(2011年7月9日朝刊掲載)

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