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社説・コラム

私の学び ヒロシマを語り継ぐ教師の会事務局長・梶矢文昭さん 体験伝承 被爆者の役目

 「コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ」。作家の原民喜が被爆直後にメモした。その通り。私も生き延びたからには、伝えていかないといけない。

 「あの時」、大須賀町(現広島市東区上大須賀町、爆心地から約1・8キロ)の民家を借りた、荒神町国民学校(現荒神町小)の分教場の玄関にいた時だった。当時1年生。ピカーっと光って。2歳上の姉は、その家の奥で家の下敷きになって死んだ。

 小学校の教員になり、1968年ごろ広島児童文学研究会に入った。被爆体験を何かの形で残す必要があると感じていたので、そこの同人誌「子どもの家」に原爆に関する童話を書くようになった。

 学校では当時、「平和教育」といえば教職員組合の活動の一環。組合が平和教育の中身を考えて実施する。小学校に講演しに来るのは組合の関係者。85年ごろ、校内に被爆者の教員は私を含めて4人いた。しかし、われわれが証言する場はなかった。

 94年に長束小(安佐南区)の校長になり、学校として平和学習に取り組めるようになった。そのころはまだはしりだったインターネットと結び付けた。学校のホームページを作り、千羽鶴を送ってもらうように呼び掛け、私の被爆体験も載せた。担当の教員は大変だったが、国内外から千羽鶴が大量に寄せられ、体育館の壁全面につるすほどだった。

 2001年に「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」を始めるきっかけは、退職後の99年4月から3年間、嘱託として広島市教委に勤めた時の経験。「国旗国歌反対」を訴えに来る被爆者たちがいた。ただ、全ての被爆者が同じ考えを持っているわけではない。

 生き延びてそのありさまを伝えるのが被爆者の役目だと私は思っている。政治的な活動からは距離を置き、自分にできることをしたい。もっと学校を回って子どもたちに伝承しないといけない。市退職校長会の総会で呼び掛け、01年11月、語り継ぐ教師の会の発起人会を開いた。

 会は「事実、実相、実感」を伝えることを重視している。会員は現在70人。5~9月に毎月開く定例会では、証言者から被爆・戦争体験を聞く。一般に公開しているが、若い人が集まらない。思うように世界は動かないなあ。(聞き手は二井理江)

かじや・ふみあき
 広島市東区出身。広島大教育学部卒業後、1962年4月から矢賀小(東区)教諭。幟町小(中区)広島大付属小(南区)などを経て94年4月から長束小校長。99年3月に定年退職。

(2015年5月25日朝刊掲載)

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