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「戦争詩人」の過去 直視 広島出身の大木惇夫 地元で資料展 次女が伝記出版

 戦時中に陸軍文化部隊宣伝班員として南方戦線に従軍し、戦意高揚の詩を多く残した広島市出身の詩人大木惇夫(あつお)(1895~1977年)。生誕120年のことし、大木の次女が伝記を出版し、広島市立中央図書館(中区)は資料展(30日まで)を企画した。「戦争協力者」としての自己を見つめつつ、古里ゆかりの作品も多く残した詩人の歩みを伝える。(石川昌義)

 広島市天満町(現西区)に生まれた大木は、県立広島商業学校(現県立広島商高)を卒業後、銀行員を経て上京。1925年に第1詩集「風・光・木の葉」を出版する。北原白秋に師事し、叙情的な作風を見せた大木は、東海林太郎が歌う戦前の大ヒット曲「国境の町」も作詞した。従軍後は一転、「神々のあけぼの」「豊旗雲(とよはたぐも)」など愛国的な詩集を編んだ。

戦後 苦境の日々

 戦時中の戦争協力を理由に「戦争詩人」と目された大木は、戦後詩壇で活躍の場を失う。依頼に応じて校歌や社歌を作詞するなどしてほそぼそと暮らした苦境の日々は、次女でエッセイストの宮田毬栄さん(78)が4月に刊行した「忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡」(中央公論新社)に詳しい。

 一方、戦前の詩集などを集めた中央図書館の企画展に、戦後の大木の姿勢を象徴する資料があった。

 「言ふなかれ、君よ、わかれを、  世の常を、また生き死にを―」

 従軍体験を色濃く反映した42年の詩集「海原にありて歌へる」に収めた詩「戦友別盃(べっぱい)の歌」。この詩について、雑誌「本の手帖(てちょう)」(昭森社、65年8月号)の「戦争と文学」と題した特集に、乗っていた船が砲撃を受けて沈み、海に投げ出された戦場体験を振り返り、当時の心境を寄せている。

 「お互いに生還を期しない者同士としての別盃に添える、この詩の言葉を、必らずしも他に向けてのみ言うのでなく、みづからも深く心に刻んだのである。―今さら何も言うことはない。默々(もくもく)として身を挺(てい)するという、壮烈な單純(たんじゅん)さに生きるのだ。默(だま)ろうではないかと」

 「戦友別盃の歌」は、戦地に赴く若者や前線の兵士に愛唱され、詩集は日本文学報国会の大東亜文学賞を受けた。同図書館所蔵の直筆原稿からは、戦後20年を経てなお、過去の自分と対峙(たいじ)する大木の姿が見て取れる。

「誠実さ感じる」

 69年に刊行した「大木惇夫詩全集」(3巻)にも、この詩を含む戦時中の詩を全て収録している。同館の石田浩子学芸員は「戦時中の創作を否定する詩人が多くいた中で、自身の過去を隠さず、真摯(しんし)に向き合った。詩人としての誠実さを感じる」とみる。

 戦後の大木は合唱曲「大地讃頌(さんしょう)」を作詞し、三滝寺(西区)の山荘で仏典の現代語訳に取り組んだ。平和記念公園(中区)の「祈りの像」には「み霊(たま)よ 地下に哭(な)くなかれ」との詩を刻む。県立広島商高(同)の詩碑も同様に、死者を悼む。時流に翻弄(ほんろう)された詩人の心の奥底を想像できる。

(2015年6月3日朝刊掲載)

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