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連載・特集

戦後70年 戦争とアスリート 広島 <2> 競泳 河石 達吾(1911~45年) ロサンゼルス五輪男子100メートル自由形銀メダル

息子よ 思いを手紙に 会えぬまま硫黄島で戦死

 最期の瞬間、まだ見ぬ息子を思っただろうか。1945年3月。競泳の五輪銀メダリスト、河石達吾は激戦の地に倒れた。33歳。栄光と苦難の人生は能美島で始まり、硫黄島で幕を閉じた。

 広島県大柿村(現江田島市)生まれ。幼少期から海に親しんだ河石は「旅客船と競争して勝った」という伝説が残るほど、泳ぎの達者な若者に成長。修道中に進み、才能に磨きを掛けた。

 慶大進学後の32年にはロサンゼルス五輪の男子100メートル自由形に出場。予選から尻上がりに調子を上げ、決勝は米国勢を抑えて2位となった。「思い残すことは一寸もなかった」「完全に責任を果たした」。後にこう振り返ったように、完全燃焼の銀メダルだった。

 卒業後、大阪の電力会社に就職した河石を過酷な運命が待ち受ける。38年に召集され、中国へ。42年の除隊後に結婚したのもつかの間、44年6月に再び召集された。妊娠中の妻輝子さんを残して。

 12月に硫黄島で男児誕生の知らせを受けた河石は「往年の競技において勝利を得た時のそれと同じだ」と手紙に感激を表し、「達雄」と名付ける。「生まれたというそのことだけで、ずいぶんおやじにあれこれ考えさせ、楽しませてくれる。達雄、万々歳だ」。息子を造船技師にする夢も記した。

 45年1月。輝子さんが初めて息子の写真3枚を同封し、「いくら爆撃が多くても、硫黄島に達雄と一緒に飛んでいきたい」とつづった手紙は後日、未開封で戻ってくる。米軍の上陸に備え、配達は停止されていた。

 「硫黄島からの手紙」に込められた思いは、70年を経た今も息づく。達雄さん(70)=兵庫県尼崎市=は91年、亡くなった母の遺品の中から複数の手紙を発見した。これを題材に、生誕100年の2011年には母校・大古小の児童が劇を上演。江田島市の小中学校の一部で今、道徳の教材として活用されている。

 「親が子を思う気持ちや平和の大切さを、次の世代に語り継いでほしい。それが父の供養になる」。達雄さんは願っている。(加納優)

(2015年7月1日朝刊掲載)

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