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社説・コラム

『言』 シベリア抑留 戦場は情けも法もない

◆手記「凍った大地に」の著者・品川始さん

 終戦後、旧ソ連国境近くにいた軍民数十万人の邦人が旧満州(中国東北部)から酷寒のシベリアに連行される。ゆえなき重労働に駆り立てられ、栄養失調で命を落とす者もいた。「シベリア抑留」である。引き揚げの地、京都府舞鶴市があまた抱える資料を記憶遺産として、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に登録申請する際にも核心となった。抑留体験記「凍った大地に」が近く出版される、島根県邑南町の品川始さん(91)に聞いた。(聞き手は論説委員・石丸賢、写真・今田豊)

 ―今回の本は、10年前に自費出版したものの復刊ですね。
 はい。絶版になっていたのを惜しんで、出版社に橋渡しをしてくださる方がいまして。戦後70年の節目にいま一度、世に問う意味もあろうということで、日の目を見ました。

 ―品川さんの抑留生活は4年間にわたったんでしたね。
 20歳だった1943(昭和18)年、浜田の歩兵第232連隊に入り、中国の長江中流域の湖北省へ。45年7月、移動先の旧満州で武装解除になりました。「ソ連で3カ月、炭鉱を掘れば帰国できる」と聞かされ、連れて行かれたのがシベリア。石炭ではなく、木材の切り出しが主な作業でした。

 ―原稿の随所に「死にざま」という言葉が見えます。
 戦場で銃弾に当たれば「名誉の戦死」と呼ばれ、丁重に祭られたものでした。それに引き換え、シベリア抑留者の末期はどうだったか。水のようなスープに黒パンだけの食事で満腹感を覚えたことなど一度もなかった。吹雪の中での重労働に倒れる者、母の名を呼びながら衰弱死していった者。哀れな死にざまでした。その死が忘れ去られようとしている。彼らも皆、立派な戦死だったと私は信じており、伝えたい一念なんです。

    ◇

 ―本の題名通り、凍った世界だったんですか。
 氷点下30度、40度になると、息をするのもつらい。重労働、寒さ、栄養失調の三重苦で初めての冬を越せず、死ぬ者が多かった。埋葬作業に加わったこともあります。丸裸の亡きがら3体はぴんと凍っていた。薄くなった皮膚に、あばら骨や関節が浮いて…。落としたら折れそうな、ガラス細工のように見えた。「せめて毛布を掛けてやりたい」と頼んだが、監視兵は許してくれませんでね。

 ―ただ、「ソ連憎し」一辺倒ではない筆遣いです。自費出版の折にも、そこに引かれた読者が多かったようですね。
 ええ。恨みつらみを叫ぶ思いで書き始めたんですが、民衆同士は何の恨みも憎しみもない。ロシア人だって人の子。監視兵の隙を見て、ジャガイモを食べさせてくれたお年寄りの住民の笑顔と情けは忘れられません。

 ―なるほど。情けは国を隔てない、と。
 それに、ロシア人には一度も殴られなかったですね。「早く仕事しろ」「ノルマを果たせ」と口はうるさかったけど。ラーゲリ(収容所)に当初、日本軍の上下関係が持ち込まれ、元将校の方がよほど暴力的だった。

 ―「ノルマ」は、シベリア抑留者が持ち込んで広まったロシア語ですね。一方で、抑留者がなめた辛苦や凍土に眠る犠牲者の思いは、戦後の社会に伝わっているようには思えません。
 そうですね。昨年でしたか、大相撲で大関昇進を伝えられた日本人の関取が「大和魂を貫く」とか何とか、あいさつを口にしていました。あの3文字のせいで人が何人死んだと思っとるのかと腹立たしかった。戦場のひもじさや痛みを知らぬ者が大和魂だとか、武力行使などと口走る風潮は空恐ろしい。

    ◇

 ―恐ろしい、ですか。
 戦争を知らない世代が多いのは幸せなことじゃあるが、絶対に戦争を始めちゃいけんことくらいはわきまえてほしい。私は軍人になろうとは、ひとつも思っていなかったが、「敵は鬼と思え」と教育され、武器を取れば自分が鬼になる。上官の命令のまま、やりたい放題だった。情けも法律もない。いくら戦争反対と言っていても、子どもが兵隊に取られれば「勝て、勝て」となる。国が旗を振れば、自然(じねん)になびく。今の国会のやりとりを見ても、そんな気がしてなりません。

しながわ・はじめ
 島根県邑南町(旧瑞穂町)生まれ。尋常高等小を卒業後、広島の中島本町にあった映画館「世界館」で絵師見習いなど。43年、浜田連隊に入営。シベリア抑留を経て49年に復員後、農業の傍ら油絵で抑留体験を描く。11年に京都・舞鶴引揚記念館で絵画展を開いた。松江市のハーベスト出版から「私のシベリア抑留記 凍った大地に」(1620円)が8月に復刊。現在は町内のケアハウスで暮らす。

(2015年7月15日朝刊掲載)

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