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因島空襲 捕虜が日記 収容所近くの家に爆弾/同僚が破片でけが 英国人男性「後世に伝えて」

 1945年7月28日に尾道市の因島であった空襲の惨状を、島の捕虜収容所にいた英国人男性が日記に克明につづっていた。男性は終戦後に帰国。98年に来日して収容所跡を再訪した際、案内した福山市の小林晧志さん(75)に「後世に伝えて」とコピーを託し、2012年に89歳で亡くなった。戦争捕虜の実態を調べている市民団体「POW研究会」の福林徹共同代表(京都府)は「捕虜による空襲の詳細な記述は珍しく貴重な資料」としている。(新山京子)

 日記を書いたのは、英国・ヨーク市出身で英国空軍に所属し、ジャワ島で日本軍に捕らわれたトム・ジャクソンさん。「戦闘機が四つの爆弾を落とした直後、巨大な煙とがれきが空に舞い上がった。とっさに『頭を下げて身を隠さなければ』と思った」と緊迫した状況を描写している。

 さらに「約30分間飛び回り、爆弾を落としたり、機銃掃射したりした」「収容所近くの家には爆弾が直撃、2人の子どもが犠牲になった。空襲で5軒が完全に崩壊していた」と被害状況を説明。「防空壕(ごう)に隠れていた同僚が爆弾の破片で左腕にけがを負った」と捕虜も巻き込まれたことを明かしている。

 収容所は42年11月に「八幡仮俘虜(ふりょ)収容所因島分所」として開設。約200人が45年9月まで当時の日立造船因島工場で船の修理などを担った。

 因島空襲では工場従業員とともに周辺住民も被害に遭ったが、犠牲者数は判明していない。同じ収容所にいた英国人作家は、当時の生活をつづった著書で「約400人がけがを負い、そのうち約160人が亡くなった」としている。

 ジャクソンさんは98年11月、収容所跡を訪れ、当時交流があった住民たちと再会。外国人捕虜を日本に招く活動の一環で案内役を務めた小林さんに、日記や収容所の様子を描いたスケッチのコピー、原本の写真などを手渡した。

 ジャクソンさんは「自分たちを苦しめた日本人が憎かった。でも住民と触れ合う中で平和の大切さを重く受けとめていることが分かり、憎しみは消えた」とし、「空襲の悲劇を後世に伝えるために使ってほしい」と話したという。

 福林共同代表は「捕虜の日記に空襲の詳細な記述があるのは珍しい。因島空襲の実態を明らかにする貴重な資料」と説明。小林さんは「平和の尊さを伝えるために役立てたい」としている。

(2015年7月18日朝刊掲載)

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