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連載・特集

『生きて』 児童文学作家 那須正幹さん(1942年~) <6> サラリーマン時代

入社2年 異動機に退社

 大学4年の秋だったかな、学内で、東京の日通商事という会社の求人案内が出とった。山行にのめり込んでいて、東京なら、日本アルプスや、谷川岳に登れるなと思うて。同じ学科の学生2人と受けに行った。

 ペーパーテストを受けて、その後、面接があった。僕の面接を担当したのが、人事部長じゃったか、早稲田大ワンダーフォーゲル部のOBで。履歴書を見て「那須君は山岳部だそうだが、どんな山へ登りましたか」と聞かれて。面接の間、山の話ばっかり。そしたら、3人受けたのに、僕1人が通ったのよ。

  1965年、日通商事に入社。自動車販売部門の都内の営業所に配属
 そこで、自動車のセールスを始めた。僕は、江東区の北砂を担当して、一軒一軒歩いて回った。4月、5月と1台も売れなかったねえ。

 6月、眼科診療所を営業に回った時、出会ったお医者さんが、東京慈恵会医科大の眼科医で。僕が広島じゃと言うたら、その先生も広島大付属高を出たと言う。4月までドイツにおられて、免許は持っとるけど、車はないという。そういう縁で、買ってもらえることになった。ブルーバードの2ドアセダンだな。それが僕のセールス1号車だね。

 ところが、その後、夜中に電話がかかってきて、「那須君、車が動かんようになった。何とかしてくれえ」と頼まれた。しょうがないから、電車で行ったら、何のことはない、ガス欠じゃった。

 そんなことで、結構楽しかったんじゃけど、当時、荒川の土手で、昼に牛乳とパンを食べながら、ふと10年後の自分を想像してみても、なかなか思い浮かべることができんのよ。このまま、車のセールスを続けるという将来に、ちょっと疑問があった。

  入社から2年、異動があった
 今度は、自動車の修理工場を顧客にして回る部門になった。たまたま、僕が休んどる間に辞令があって。こっちの希望も聞かずに決めるなと、勝手に突っ張って、とにかく辞めると言うて。67年6月、広島の実家に帰った。おやじに「もうサラリーマンはいやじゃ」と言うたら、「ええ時に帰ってきた」と。

(2015年7月23日朝刊掲載)

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