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社説・コラム

天風録 「終戦前夜のすき焼き」

 文豪もほっとしたのだろう。「谷崎君の客舎に至り午飯(ひるめし)を恵まる」。永井荷風は日記「断腸亭日乗」に記す。1945年8月14日のこと。東京の空襲で2度焼け出され、岡山市でも空襲に。岡山県北の勝山を訪れて人心地つく▲「谷崎君」とは勝山に疎開していた谷崎潤一郎。その年下の作家が見かねるほどやつれていたのか、夕飯も荷風はもてなされる。「谷崎氏方より使の人来り津山の町より牛肉を買ひたればすぐにお出ありたしと言ふ」▲その夜、中国山地の小さな町で文豪2人がすき焼きを囲んだ。谷崎の日記には広島に新型爆弾などの記述も見え、戦局はいよいよ極まっていた。どんな話で夜は更けたのだろう。その谷崎が亡くなって、きょうで50年▲一夜明け、荷風を岡山へ見送った谷崎は玉音放送を聞くが雑音で聞き取れなかった。その頃、荷風は持たされた弁当に列車内で大喜び。「白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり」。岡山に戻って終戦の報に接する▲勝山は時局に合わぬとされた「細雪」を谷崎が50枚ほど書き進めた地。戦後刊行され、代表作になる。荷風も息を吹き返した。終戦前夜に味わった中国山地の恵みが2人に活力を与えたのだろうか。

(2015年7月30日朝刊掲載)

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