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連載・特集

ヒロシマ70年 第2部 私も「ヒバクシャ」 <4> ユニタール広島事務所職員 シャムスル・ハディ・シャムスさん=アフガニスタン出身

平和の種を母国にまく

 原爆ドーム(広島市中区)を望むオフィスにいる。あの日から70年、破壊し尽くされた街を証言し続けるヒロシマの象徴だ。「最悪の戦争被害から復興したヒロシマは大きな励み。『自分たちにもできるはず』と思えるから」。国連訓練調査研究所(ユニタール)広島事務所に勤めるシャムスル・ハディ・シャムスさん(31)=東広島市=は、荒廃した母国アフガニスタンの明日を被爆地から支えている。

研修で被爆証言

 ユニタールは2003年から同国の政府職員を対象に毎年、政策立案や人材育成のノウハウを磨く6~8カ月間の研修を開く。シャムスさんは担当スタッフの一人。10日ほどある広島でのプログラムでは、講義などの合間に、必ず原爆慰霊碑を訪れ、被爆証言に耳を傾ける機会を設ける。修了者は約500人を超す。政府の要人もいる。「ヒロシマを知るネットワークができている」と喜ぶ。

 被爆地とアフガニスタンをつなぎ、復興に懸ける熱意は人一倍。自らも紛争の当事者だからだ。1978年の軍事クーデターを機に、反政権側とみられた父親は弾圧を恐れて身を隠した。79年にソ連(当時)が軍事侵攻。84年にシャムスさんが7番目の子として生まれた時は家族で隣国パキスタンに逃れていた。兄の1人は「自由の戦士(ムジャヒディン)」として闘い、89年に戦死した。

 ソ連の撤退後も内戦、米中枢同時テロを受けた米軍の軍事侵攻が続いた。祖国が平和と安定へと踏み出すには―。苦学して留学した広島大大学院国際協力研究科(東広島市)で追究した。3年前、博士号を取得し、希望してユニタール広島事務所に入った。

 働きながら得た信念がある。「原爆と、紛争被害はあらゆる面で違う。でも、恨みや報復心を越えて平和を訴える被爆者の声は、国内対立も激しいアフガンに必要な思想だ」

「禎子さん」翻訳

 行動を起こした。被爆10年後に12歳で白血病を患い、折り鶴に願いを託した佐々木禎子さんを題材にした絵本「サダコの祈り」を母国の公用語に翻訳した。基は広島市のNPO法人ANT―Hiroshimaが、パキスタンの画家と共同制作した一冊。「平和の意味すら知らない子どもたちがいるから」。シャムスさんが「広島の母」と慕う被爆者、森井孝子さん(79)=廿日市市=の平和メッセージと体験記を加えた。

 ANTと森井さんから約60万円の援助を受け、昨夏と、ことし6月の休暇に、アフガニスタンの首都カブールなど各地の小中学校をきょうだいや友人と巡り、計3千冊を配った。山岳地帯にも届けようと、断崖絶壁の細道を車で駆けた。

 絵本を胸にぎゅっと抱きしめる少女たち。字が読めないのに、ページを開き得意げな表情の男児。「持ち帰っていいんだよ」と手渡すと、目を輝かせた。物であふれる日本と違い、カラフルな絵本は宝物。何度も読み返されるに違いない。

 「小さな力でしかない。でも、ヒロシマからアフガンへ、教育を通して平和の種をまき続けたい」とシャムスさん。8月中旬には、激しい内戦を経て分離独立した南スーダンを訪れる。復興支援の研修プログラムを準備するためだ。もちろん、絵本も携える。(金崎由美)

(2015年7月31日朝刊掲載)

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