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連載・特集

たどる戦争の記憶 <下> 強制労働 ダム建設の影 継承模索

 広島、島根県境に連なる千メートル級の山々を源とし、庄原市高野町や三次市君田町を貫く神野瀬川。その中流、高野町高暮(こうぼ)にある中国電力高暮ダムに毎年初秋、県内の日本人や朝鮮・韓国人の高校生、市民ら約100人が集まる。

 高暮自治会主催の「平和の集い」。ダム近くの高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑前で慰霊祭に参列した一行は、地区の研修施設でこのダムの建設にまつわる歴史を学ぶ。

朝鮮の男性動員

 高暮ダムは1940年、国策会社日本発送電によって着工。戦時の労働力不足を補うため動員されたのは、日本の植民地だった朝鮮の若い男性たちだった。当時の工事関係者や住民の話によると彼らは「集団」と呼ばれ、2千人に上ったという。

 えん堤の建設や、下流の発電所まで送水するトンネル掘削など作業は広範囲にわたった。人力頼りの作業は過酷で危険を伴い「100人以上は犠牲者がいた」との飯場頭(はんばがしら)の証言などが残る。

 逃亡も相次ぎ、捕まった後の制裁も厳しかった。43年ごろまで現場近くで暮らしていた草谷影正さん(92)=高野町新市=は、山での炭焼きの最中、逃げてきた20歳ほどの朝鮮人に逃げ道を教えた体験を持つ。「餅を与え、ぼろぼろの地下足袋を替えてやり、灰の上に地図を描いてやった。無事逃げたのか今も気になる」と話す。

住民の証言収集

 「こうした歴史を繰り返してはならない」と高暮の住民たちが2000年から始めたのが「平和の集い」だ。先頭に立った草谷末広さん(67)は「強制労働の実態も、1995年に日本人と朝鮮人の有志によって追悼碑が建てられたことも知らなかった」と振り返る。

 当初から集いに参加する三次市南畑敷町の四車(ししゃ)ユキコさん(74)は、君田中の教師だった70年代、生徒と一緒に、ダムに近い君田町櫃田地区の住民の証言を集めた。高暮地区の住民が手掛けた記録集の執筆にも県北の郷土史研究会の仲間と協力。集いでは証言を基に作った紙芝居を披露してきた。

 だが、四車さんたち証言を集めた世代も語り部が難しい年齢になった。「紙芝居や講演を録画して残すとともに、命や人権、朝鮮文化などにもテーマを広げ、思いやりを育む場にできないか」。高暮の人たちは継承のための新たな模索を始めている。(伊東雅之)

(2015年8月6日朝刊掲載)

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