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連載・特集

経済人たちの戦後70年 <1> 広島マツダ(広島市中区)・松田欣也会長

爆死の父継ぎ再興 ビル改修 平和願う場に

 戦争を経験した地場企業の経営者たちは、それぞれの思いを胸に戦後の復興を担い、地域経済を支えてきた。戦後70年の節目に、戦争体験や復興時の苦労、次世代へのメッセージなどを聞いた。(桑島美帆)

 広島マツダ(広島市中区)は1933年、松田欣也会長の父宗弥氏が東洋工業(現マツダ)の三輪トラックを販売する「マツダモータース」として、猿楽町(現在の基町)で創業した。45年1月、建物疎開により本川橋の西詰め付近へ移転。原爆投下で、社屋は全壊し、宗弥氏や従業員たちが犠牲になった。

 あの日、おやじは来客があるからと、いつもより早く出掛けたらしい。建物と一緒になってドーン、で終わりですよ。おやじはいつも金庫の鍵を持ち歩いていたから、鍵の付いた骨をおふくろが引き取った。お骨だけが残った。

 当時、8歳だった私は君田村(現三次市)の寺に集団疎開していた。疫痢になったことがあって、おやじが見舞いに来るのを楽しみに待っていたのに、おふくろしか来なかった。すごくがっかりしたことを覚えている。だからおやじとはずっと会えなかった。

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 宗弥氏は、東洋工業を創業した重次郎氏の次男。欣也氏は集団疎開前、宗弥氏とともに重次郎氏と一緒に暮らしていた。

 祖父はもともと鍛冶屋だったから、ものづくりの話をよく聞かせてくれた。原爆投下から2日後、祖父母とおふくろが、疎開先に私を迎えに来た。

 でもおやじがいない。祖母に聞いたら「おじいさんに聞きなさい」と。それでおやじの死を悟った。車で相生橋を渡って猿楽町を通り、牛田(東区)の自宅に向かった。もう市内は丸焼け。自宅の天井も飛び、床は吹き上げられていたため、住める状況ではなかった。家がないから、戦後しばらくは転々として小学校も5回変わった。だから基礎学問は全然駄目ですな。

 入市被爆したことは、自分の子どもたちにも語ってこなかった。被爆者健康手帳の申請をしたのは5年ほど前。だが証人は既に亡くなっており、却下された。

 市中心部で建物疎開に出ていた母方の祖父母も原爆で大やけどを負い、すぐに亡くなった。

 結局、戦争は破壊。そして悲惨。戦争がなかったから、戦後の日本は発展した。原爆でおやじを失い、働き手のいない家族というのは、本当につらかった。国力を増すことは必要だが、別に軍備で強くならなくてもいい。経済力だっていいはずだ。

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 長男の哲也社長(46)は今、原爆ドーム横の自社ビルを「広島ピースタワー(仮称)」に改修している。戦争で消えた創業の地を見下ろすビルを「平和の尊さを考える場所」に替えようとしている。

 私が62年に25歳で社長に就任したときは、モータリゼーションの真っただ中。自動車の販売台数が伸びれば会社も伸びるという時代で、とにかく利益を出そうと必死だった。過去を振り返る余裕はなかった。時代は変わるんだから、新しい力で、いい話だけでなく、苦労した話もつないでいってもらいたいですね。

まつだ・きんや
 立教大経済学部卒。1959年4月、愛知マツダ(現東海マツダ販売)入社。61年、広島マツダ取締役。62年、故松田耕平氏の後任として、4代目社長に就任。2002年から会長。広島市中区出身。

(2015年8月11日朝刊掲載)

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