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連載・特集

民の70年 第1部 秘密と戦争 <4> 謎の徴用船

行き先・目的 軍機で秘され 爆発の大惨事 記事10行だけ

 市街地の3分の1が焼失し、120人が死亡した大惨事を伝える地元紙の記事は驚くほど小さい。境港市の岸壁で1945年4月23日、陸軍が徴用した玉栄(たまえ)丸が爆発した。記事は10行。見出しは「境港火事」。火薬を満載した徴用船の爆発という事故の核心は報じられなかった。

教官「窓見るな」

 「被害状況を写真撮影した新聞記者もいたが、当時の紙面には載っていない。役場の公文書ですら事故原因の記述を避けている」。戦後70年を機に境港市が開いた戦災写真展の会場で、同市の元教員根平雄一郎さん(67)は戦時下の情報統制の厳しさを語る。

 根平さんは70年代末から事故遺族の証言収集に携わる。教員仲間と82年に刊行した冊子「鳥取県の戦災記録」には「中学校の教官は窓を見るなと言った」「事故のことを手紙に書いたら憲兵隊に呼び出された」などの手記を盛り込んだ。

 島根県邑南町の森田嘉明さん(76)の父一夫さん=当時(36)=は、陸軍船舶司令部(暁部隊)の隊員として玉栄丸の荷揚げ作業に携わった。事故の3日前、広島市の宇品から境港に到着。父は家族に宛てて「境港で会おう」と手紙を出していたという。

 母に手を引かれて境港に着いた森田さんが見たのは煙がくすぶる焼け野原だった。「何が起こったのか、誰も教えてくれない。父を捜すこともさせてくれない。引き返すしかなかった」。やがて、父の遺骨が最寄りの駅に届いた。

 「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によると、国家総動員法(38年)や船員徴用令(40年)に基づき、軍部による船の徴用は始まった。大型商船に加え、漁船や機帆船も対象になった。同館のボランティアガイド大井田孝さん(73)=同市=は「船の行き先も目的も『軍機』として秘密にされた。当時の資料には伏せ字が目立つ」と解説する。

全国で3665隻被害

 瀬戸内海の津々浦々にも徴用は及んだ。東広島市安芸津町の郷土史家、増田法生(のりいき)さん(80)は、あえて塗装をせず、薄汚れたまま停泊する機帆船が並んだ自宅近くの港の光景を覚えている。

 戦時下を知る人への聞き取りをした増田さんは「陸軍の見張りに見つかると片っ端から徴用された」「太平洋戦争末期には、見つからないよう速度を落として隠れるように航行する船が増えた」という回想を耳にした。政府が49年にまとめた報告によると、全国で3665隻の機帆船と漁船が被害を受けたという。

 待てど暮らせど、帰って来ない徴用船。「船がどこで何をしているかなんて、おおっぴらに話せるような時勢じゃない」と増田さん。日本殉職船員顕彰会(東京)によると、徴用され、戦没した船員の数は6万609人。広島県からは3428人で、鹿児島県に次いで全国2番目の多さだった。(石川昌義)

(2015年8月12日朝刊掲載)

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