×

連載・特集

経済人たちの戦後70年 <2> 福屋(広島市中区)・大下龍介会長

先輩の復興経験 継承 社内で追悼式続ける

 爆心地の北約5キロにある祇園国民学校(現祇園小)で被爆した。当時9歳。旧国道に面した自宅前は、広島市中心部から逃げて来た人たちの列が続いた。庭先で目の当たりにした70年前の光景を、今でもふとした拍子に思い出す。

 それはもう悲惨ですよ。女の人も子どもも髪が焼け、顔や手の皮膚が垂れて。いつも一緒に遊んでいた隣の家の男子中学生は、顔が腫れて誰だか分からんかった。

 怖いとかショックというより、ひどいことをしよるなあ、なんでこんなことをするんかなあという思いの方が強かった。原爆の話はあまりしたくない。だけど、ずっと私の脳裏にある被爆体験が、おのずと平和や文化を希求する気持ちを強くしたと思う。

■   □

 爆心地から710メートルの場所にあった福屋(現八丁堀本店)は、原爆で火炎にのまれ、廃虚と化した。営業再開の第一歩は、戦後初めての正月を迎えた1946年1月。焼け野原に残った本店に社員たちが集まり、がれきでかまどを作って牛乳瓶に酒を入れた熱かんを売った。

 原爆で犠牲になった社員31人を供養するため、77年に、中区の超覚寺に課長以上が集まって三十三回忌を開いた。参加者はおおむね被爆者。法要の前後にいろいろ雑談する中で、原爆の後、福屋が経験したことを聞いた。

 建物の中でたくさんの人が亡くなり、野戦病院になった。そういう壮絶な状況で、先輩たちが一丸となって再起した。福屋の創業は戦前だけど、原爆からの復興こそが創業だったんだ、との思いを強くした。

 われわれの先輩がやってきたことを後世に伝えていかにゃいかん。三十三回忌が終わった後、当時の森本寿夫社長(故人)と話し合い、次の年から毎年8月6日の朝、社内で追悼式を開くことを決めた。

 時の社長が、福屋と原爆との関わりを従業員に伝え、本店の正面には「謹んで御霊のご冥福をお祈り申しあげます」と記した懸垂幕を1本掲げる。以来、ずっと続けている原爆の日を迎える福屋の姿勢だ。

 社内に被爆した人はほとんどいなくなった。だけど被爆後、みんなが「創業」に携わったことを折に触れて社員が耳にすることは、経験に近い力を発揮し、推進力になり続けると思う。

■   □

 70年に33歳で福屋に入社して以来、百貨店経営に携わってきた。他店に先駆けて、ルイ・ヴィトンやシャネルなど海外の高級ブランドを次々に誘致。絵画展や書展など、文化催事にも力を入れている。

 戦後しばらくは、商品力とかなんとかいう次元じゃなかった。でも70年代は広島でも百貨店が上昇気流だな、と感じた。73年に三越、74年にそごうが相次いで広島に進出し、本来の百貨店はどうあるべきか、ということを真剣に考えた。

 バーゲン合戦では意味がない。作り手の優れた技能と、磨かれた感性を世界中から集め、地域に届けることが百貨店の使命。常に広島の中枢性に資することを考えた。被爆後70年、福屋は街づくりの一端を担ってきたと思う。これからも都市機能としての責任をしっかり果さなきゃいけない。

おおしも・りゅうすけ
 慶応大法学部卒。1970年、福屋取締役。常務などを経て80年、社長に就任。2008年から会長。1992年4月~95年3月に広島経済同友会代表幹事を務めた。広島市安佐南区出身。

(2015年8月12日朝刊掲載)

年別アーカイブ