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連載・特集

つなぐ~戦後70年 岩国の秘密基地 <中> 整備

児童・生徒駆り出し造成 出撃目的だけの飛行場

 藤河基地は、藤河村(現岩国市多田)の山々に挟まれた場所に設けられた。

 「3、4人で丸太を地面にたたき付け、ひたすら土固めをした。重労働で、校歌を歌って自分を励ましながら作業した」。県立岩国高等女学校(現岩国高)1年生だった松野和子さん(82)=同市多田=は同級生たちと滑走路の整地に当たった。滑走路になったのは、ほとんどが畑だったという。

校務日誌に記録

 米軍との本土決戦に備えた特攻隊の秘密基地の整備方針が決まったのは1945年6月中旬とされる。藤河基地の造成には地元の児童、生徒も駆り出された。

 岩国海軍航空隊の基地近くにあった川下国民学校(現川下小)の校務日誌にはその記録が残る。「藤河方面緊急動員」など、「藤河」の文字が書かれた作業は6月29日から7月13日まで続いた。

 6年生だった嘉屋本徳美さん(82)=同市川下町=は「家から鎌を持って作業に出た。秘密基地だとは知らず、『岩国に立派なのがあるのに、また造るのか』と不思議に思った」と記憶をたどる。

 防衛研究所(東京)の資料には、滑走路について「長さ600メートル」との記述が残る。主要任務は「発進用」。戻ることを前提にしない、出撃のためだけの飛行場だった。

 京都の峯山海軍航空隊の元隊員たちでつくる「峯空会」がまとめた冊子によると、藤河基地に配置された特攻隊員の日記に「国民学校児童らの勤労奉仕に助けられ作業が進む。汗、滝の如し」(7月21日)などとあった。終戦間際まで、滑走路の整備は続いた。

 藤河基地には多くの整備兵もいた。同じ冊子に載る整備科指揮官の記録によると、7月23日に上空からの視察で、米軍に見つからないための擬装が必要だと判断。「村長と相談、協力を依頼」とある。

村民も擬装作業

 同25日には「村民一〇〇名の義勇隊、早朝より出動、滑走路の擬装作業を行う。板で四角の鉢を作り桑の木を並べる。更に草を植えるなど。村民に感謝」と続く。

 藤河国民学校(現藤河小)の6年生だった西村邦夫さん(81)=同市多田=は「カムフラージュ用に、近くの山の木をのこぎりで切った」と振り返る。飛行機は近くの竹やぶに隠された。

 当時15歳だった片山昇さん(85)=同=は、家の畑を基地のために提供した。特攻隊員たちとの交流もあった。風呂を貸したり、飛行機のエンジンをかけるのを手伝ったり。錦川で一緒に遊んだ記憶もある。

 片山さんとそんなに年の違わない10代後半の若い兵隊もいたという。「遊んでいる時は普通の青年だった。でも飛行機に乗る姿は立派で格好良く見えた。私もそのころ、海軍兵に志願して合格していた。死は誉れ。そういう時代だった」(増田咲子)

(2015年8月13日朝刊掲載)

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