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連載・特集

経済人たちの戦後70年 <4> イズミ(広島市東区)・山西義政会長

相手の喜び 商売の源 何百年も続く会社に

 終戦まで、世界最大級だった旧日本海軍の潜水艦「伊400」の乗組員だった。西太平洋に停泊していた米艦隊を攻撃するため航海中に、8月15日を迎えた。広島の原爆投下を聞いたのも潜水艦の中。母を原爆で亡くした。

 潜水艦にラジオ短波で情報を集める電信兵というのがおってね。「広島に今までにない爆弾が落ちて大変だ」というようなことを聞いた。終戦後、横須賀から汽車で広島駅に帰ったら、焼け野原で何も遮るものがない。似島が、手が届く所ぐらいに感じた。ああ戦争が終わったんだな、この焼け野原でどうやって生きていくのかな、と思った。

 私が暮らしていた宇品(広島市南区)の隣の家の人が、ブリキでバケツを作って広島駅前の闇市で売っていた。じゃあ自分も闇市で商売してやろうと。売るネタを考えていたら、潜水艦で一緒だった御調(現尾道市)の人が「実家で干し柿を作って生活の糧にしとる」と話していたことを思い出した。ほいじゃあ、それを買うてきて売ろうと。これが商売の原点だ。

 最初は、地下足袋や軍服と物々交換した。花嫁衣装を手に「子どもがひもじい思いをしとるから干し柿と交換して」と言う人もおった。相手に喜んでもらえて、いいことをしたなあと思った。その気持ちは今の商売でも変わらない。

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 1950年に衣料卸の山西商店を設立。卸から小売業に参入し、61年、八丁堀地区(中区)にスーパーを出店した。73年には祇園地区(安佐南区)で郊外店を開いた。

 まだスーパーは珍しかったから、八丁堀の店は想像を絶するようなお客さんが押し寄せた。特に得意の衣料は肌着や靴下、シャツなど何でもそろえた。商品を取り合う人もいた。

 最初から衣食住全部を扱うGMS(総合スーパー)。1カ所で何でもそろうという魅力がある。どこへ行っても目指すのは地域一番店。大きいマーケットで商売をしようと。広島だけでやると限界があるから、羽ばたいた。それが、瀬戸内ドミナント戦略と九州への進出。会社をいかに大きくするか、あるいは身近な人をいかに幸せにするかということばかり考えてきた。

 今、一番のライバルはイオン(千葉市)。特に九州では華々しいチャンバラをやっとる。でも、勝ち負けより生き残ることが大事。何百年も生き続ける会社になって、お客さんに満足してもらう店をつくる。

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 中国地方や九州で大型店の出店を進めてきたイズミは、企業の合併・買収(M&A)も強化。「2020年までに売上高1兆円」を目標に掲げる。92歳の今も経営の一線に立つ。

 流通業で1兆円というのは、やっぱり事を成したといえる単位。リーマン・ショックで五つの店が赤字になって一度は旗を降ろしたけど、言うた以上、やらにゃいけんからね。生きとる間に1兆円をやろうと。私の人生観は虚心平気。GMSで日本一。東京ではなく、広島の企業が日本一をやったらええじゃないですか。

やまにし・よしまさ
 宇品尋常高等小学校卒。1946年に広島駅前の闇市で露店を始め、50年に衣料卸山西商店(現ヤマニシ)を設立。61年、いづみ(現イズミ)を設立し、社長就任。93年から会長。大竹市出身。

(2015年8月14日朝刊掲載)

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