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連載・特集

つなぐ~戦後70年 岩国の秘密基地 <下> 終戦 出撃待機中に玉音放送 一度も使わず役目終了

 米軍との本土決戦に備え、旧藤河村(岩国市多田)の藤河基地に配置された京都の峯山海軍航空隊の特攻隊「飛神隊禮(れい)部隊」。同部隊の隊長だった鈴木富三郎さん(92)=京都市伏見区=たちは、訓練などで岩国基地を行き来しながら、出撃命令を待った。

8・6翌日に偵察

 広島に米軍が原爆を投下した1945年8月6日、鈴木さんは宿舎にあてがわれた岩国基地近くの寺にいた。「ピカッ」と光った後、爆音が響いた。「ただの爆弾とは違う」と感じた。

 誰にも相談せず翌日、1人で偵察に飛んだ。「街がくちゃくちゃになっていて、異様な感じがした」。9日には岩国基地一帯が空襲を受けた。

 鈴木さんは13日早朝、藤河基地側の宿舎だった旧藤河村の医師宅にいて、2階の窓から血を吐いた。直後に初めての「緊急発進準備」の命令を受けた。「特攻編成から外されたくない」と自分の症状は黙っていた。後に結核だと分かった。

 辞世の句も作った。「今日も征(い)く 明日も征くぞよ 特攻機 撃ちてし止(や)まん 撃ちてし止まん」。覚悟は決まっていた。

 終戦前日の14日は、岩国駅と周辺が空襲の標的になった。岩国市史によると死者は517人。多くの非戦闘員が犠牲になり、「実数は千人近かったはずだ」との証言もある。峯山海軍航空隊の元隊員たちでつくる「峯空会」がまとめた本に掲載されている特攻隊員の日記には、「岩国地区爆撃さる悲憤の極(きわみ)なり」との記述が残る。

 岩国が度重なる爆撃にさらされる中、鈴木さんは宿舎の医師から「日本は大丈夫ですかね」と問われたのを覚えている。「矛盾しているが、『勝てないけど、負けない』と思った。敵にやられるたび、攻撃を食い止めるために自らが犠牲になるのはやむを得んと感じた」と振り返る。

早朝に再び命令

 緊急発進準備の命令は15日早朝にも再び出され、出撃を覚悟した。数時間後、終戦を告げる「玉音放送」をラジオで聞いた。「国中が全力を挙げて決戦にかかれ、と命令が出ると思っていたが、まるきり逆だった」。放心状態になった。

 京都へ向けて飛び立ったのは、それから5日後。眼下に広がる街々が焼き尽くされているのを見て、「両親やきょうだいは生きているだろうか」と家族を思った。

 当時、県立岩国高等女学校(現岩国高)1年生で、藤河基地の整備に携わった松野和子さん(82)=岩国市多田=は「戦時下の空気の中、みんな言われるままに作業した」と振り返る。一度も出撃することなく、藤河基地が役目を終えたことを「本当によかった」と思う。

 「誤った国家目標の下、われわれは青春時代を過ごさなければならなかった。どんな理由があっても、戦争に訴えるのは間違いだ」。戦後70年の夏、藤河基地の記憶をあらためてたどった鈴木さんは、静かに訴えた。(増田咲子)

(2015年8月14日朝刊掲載)

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