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連載・特集

終戦直後の公文書大量焼却 国文学研究資料館・加藤聖文准教授に聞く

行政「事なかれ主義」背景 軍命令に過剰反応 「歴史の抹殺に等しい」

 戦前、戦中の公文書は軍の指示で終戦直後、大量に焼却された。公文書管理に詳しい国文学研究資料館(東京都立川市)の加藤聖文(きよふみ)准教授(48)は「公文書のずさんな扱いは、終戦直後だけではない。戦前、そして戦後も連続している」と指摘する。貴重な記録を焼き捨てた背景を探ると、官僚的な「事なかれ主義」が浮かび上がる。(石川昌義)

 ―戦前の公文書管理の意識は、どれほど粗雑だったのですか。
 文書を次々に廃棄する傾向は、明治後期にさかのぼる。明治時代の中盤までは公文書の保存への意識は比較的高かった。行政機構が肥大化するうちに文書の廃棄へのためらいが薄れた。戦時中は紙不足が深刻で、再生紙を作るために廃棄書類を溶融してリサイクルしていたほどだ。

 ―終戦直後の文書焼却の目的は、戦争責任の隠蔽(いんぺい)だったのでしょうか。
 広く流布しているその考え方は一面的だ。戦争に無関係な書類も多く焼かれた。広島県有磨(ありま)村(現福山市)が連合国軍総司令部(GHQ)の指示で作成した廃棄文書の一覧表を見ると、軍事に無関係の文書まで焼却されている。当時の担当者が「自己判断で対象を絞ると、取りこぼしがあった時に責任を問われる」と焼却範囲を広げていった状況がうかがえる。

 ―焼却の指示は全国にどう伝わったのでしょうか。
 文書焼却は軍の決定事項。口頭での指示も多く、市町村の現場は混乱した。指示が軍から警察、市町村へ伝わるほど、内容が曖昧になる。決められたことは機械的にやろうという官僚的発想が広がった結果、軍が想定したより広範囲の資料が焼かれてしまった。

 ―どのような文書が焼却を免れたのでしょう。
 全国に数例しか確認されていない焼却指示に関連した公文書を分析すると、役場の職員が自宅に持ち帰って隠した例がある。徴兵に関する名簿を、兵事係の担当者が「人の生死に関わる文書」として抱え込んだ事例だ。赤紙(召集令状)を渡して住民を戦地に送る先導役を果たした悔恨に加え、記録の廃棄が「戦没者を2度殺す」ことだと考えたのではないか。

 ―公文書管理の在り方は戦後に改善されましたか。
 不徹底と言わざるを得ない。戦中、戦後の混乱期をくぐり抜けた公文書の多くが、昭和、平成の大合併や庁舎の建て替えで廃棄され、散逸したと思われる。

 公文書管理法で公文書を「国民共有の知的資源」と位置づける今でも、終戦直後の公文書のような歴史的資料が倉庫に眠っている。福山市のように、市町村史の編さんが公文書に光を当てる絶好の機会だが、資料の管理は十分に行われていない。

 とりわけ住民の生死に関わる公文書は地域で大切に守ってほしい。文書の無分別な廃棄は、歴史の抹殺とも言えるのだから。

(2015年8月15日朝刊掲載)

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