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社説・コラム

『言』 戦争画を見る目 芸術と政治 危うさ検証を

◆美術史家・平瀬礼太さん

 終戦から70年たち、顧みられているものに戦時下に描かれた「戦争画」がある。広島県立美術館で開催中の「戦争と平和展」をはじめ各地で展示され、関連本の出版が相次ぐ。戦争美術に関する著作も多い美術史家の平瀬礼太さん(49)は「芸術の政治利用の危うさを考えることもできる」と語る。いま戦争画を見る意味を聞いた。(論説委員・田原直樹、写真も)

 ―どんな絵を指すのですか。
 戦闘場面ばかりと思われがちですが、多彩です。休息する兵士や外地の風景を描いた絵があれば「銃後」の女性や子どもも題材になりました。横山大観が描いた富士山なども国体の象徴とされ、一種の戦争画という見方もできます。彫塑もあるので「戦争美術」と言った方がいい。絵だけで相当数があったはずですが、全体像は不明です。

    ◇

 ―70年を経ても実態がよく分からないのですか。
 画面いっぱい兵士が折り重なる藤田嗣治の「アッツ島玉砕」など幾つかの絵は知られているでしょう。でも戦争画は戦後、複雑な事情から「面倒な素材」となります。研究で扱われず、知られてこなかったのです。

 ―その理由は。
 国策で描かれ、国民に知られた戦争画も終戦後、藤田の作品など153点を米軍が接収します。政治家や美術家、メディアが返還交渉し、1970年に無期限貸与の形で戻されます。

 でも一括公開は中止されました。展覧すべきかどうか論争になったのです。政治性も絡み、画家に戦争責任があるかないかなど二元論に陥り、作品的価値も歴史的意味合いも棚上げされてしまった。美術史に位置付けなかったことが現代まで響いています。戦争と芸術の関係を問い直すためにも、もっと知られるべきです。

 ―一種のタブーだったと。
 美術史を論じた70年代の本を見ても「昭和は書かない」「不毛」などとして詳述しない。戦争画は政治的で扱いづらく、研究者も言及を避けたのです。

 ―最近、あらためて光が当たっていますね。
 時がたち、「くさび」が取れた面があります。戦中の活動や作品を語らず、忌避した画家や遺族も亡くなる。いわば風化で、逆に戦争画が見られるようになりました。著作権が切れて展示、掲載も進んできました。

 いろんな角度からアプローチする研究者が出てきました。絵として見て表現を評価する動きも。同時に「当時はどう見られ、受けとめられたか」という社会史的な視点からの考察が欠かせないと感じます。多角的に論じ、研究されるべきです。

    ◇

 ―当時の画家は意欲的に描いたのでしょうか。
 進んで従軍した人から徴用されてやむなくという人までさまざま。陸軍美術協会などの組織もでき、平和を願いつつも戦意高揚に協力しました。戦争画を描いた人に戦争責任はあるか。簡単に答えは出ない。自分ならと考えてみることです。

 ―映画や写真がありながら、画家も重用されたのですね。
 敗退までも劇的に、勇ましく表現できる点が、軍部には好都合でした。玉砕図なんて誰も表現できないはずが、絵なら描ける。大画面でリアリティーを持って。だから陸軍も海軍も作戦記録画を描かせたのです。

 ―総力戦の時代、国民が絵を見る機会などあったのですか。
 戦中の画壇は「空白期」どころか、活況でした。戦争美術展覧会は地方や外地にも巡回。43年は入場約390万人と記録にあります。著名画家の絵が戦意高揚だけでなく、美術として感動を与えたかもしれません。

 ―芸術と政治の関係を考えさせられます。この6月には国会議員の勉強会が文化人を利用する発想や「政策芸術」などと語って問題視されました。
 文化やアートといった言葉のきれいなイメージから使ったのでしょうか。安易に乗じるようなら、芸術の側も軽薄すぎると言わざるを得ません。ものが言いにくく窮屈な世の中でも、批判的精神を表現するのが芸術です。でも政治的な意図で持ち上げられ、都合よく使われる恐れもある。その危うさを戦争画は物語るのではないか。政治と密着した過去を検証し、学ぶことが大切です。戦争画を繰り返さないためにも。

ひらせ・れいた
 千葉市生まれ。京都大文学部卒。専門は日本近代美術史。戦争美術も研究を進める。美術館学芸員としての経験も長く、「美術と戦争」展を手掛けたこともある。共著に「戦争と美術1937-1945」「戦争のある暮らし」など。銅像や彫刻にも詳しく「銅像受難の近代」「<肖像>文化考」などの著書がある。兵庫県加古川市在住。

(2015年9月9日朝刊掲載)

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