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連載・特集

民の70年 第2部 歩んだ道 <4> 基地の街で

ベトナム反戦訴え集う 若者や米兵、喫茶で議論

 ベトナム戦争が泥沼化していた1970年前後。米軍基地の街、岩国市は騒然としていた。山口県玖珂町(現岩国市)で生まれ育った児童文学作家岩瀬成子(じょうこ)さん(65)=同市=の青春も、基地とともにあった。

 岩国市街地にあったキリスト教の小さな伝道所に一人で行ったのは、玖珂町役場の職員だった69年。同年代の米兵が大勢いた。音楽の趣味も自分と一緒。ベトナム送りが決まった青年は「人を殺したくない。殺されたくない」と泣いた。

 米兵と知り合うと、基地周囲の異様な雰囲気が分かる。鬱憤(うっぷん)を晴らすように深酒をして、路上で殴り合う若者たち。戦争がぐっと私に近づいてきた。

ビラで呼び掛け

 岩国でも反基地運動が盛り上がった。岩瀬さんの心になじんだのは「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」だった。

 広島で学生運動をしていた友人の紹介で知り合ったのが、「岩国ベ平連」を名乗る同い年の青年。「一人でも、やる」という彼の行動は面白かった。米兵への呼び掛け文を基地のフェンスの向こうに投げる「ビラ投げ」も一緒にやった。そのうち、京都や福岡のベ平連の若者が基地近くに開いた喫茶店「ほびっと」に通うようになった。

 ほびっとの開店は72年2月。おしゃれなログハウス風の建物でね。レコードや漫画がたくさんあって、サブカルチャーの雰囲気があふれていた。マスターは同志社大の学生。「こう思うんだけど」と言ったら、よく「そんなに言うなら、じゃあ、おまえがやれよ」と返された。思ったことは、何でもやっていい。若者同士の何げない会話で、自分の生き方を考えた。

しがらみを忘れ

 店には、全国から集まった反戦運動家だけでなく、地元の若者や米兵も多かった。

 説教くささや上意下達とは無縁の空間。自分の言葉、日常の言葉で話す。基地のことだけでなく、生き方、働き方、友だちや家族の悩みまで語り合う。女性は22、23歳で見合い結婚をして仕事を辞めるのが当然という時代。しがらみだらけの田舎で、ほびっとは反戦喫茶というより、若者の集合場所だった。

 ほびっとでの講演会で知り合った作家今江祥智さんに師事し京都へ。作家デビュー後は岩国に暮らし、作品を生み続ける。

 岩国に戻って数年、米国人宣教師と一緒に下級兵士のカウンセリングをやった。自宅から見渡せる基地には今も、悩んでいる米兵がいるだろう。一方、国会前には「戦争反対」と声を上げ始めた若者たちがいる。日常の言葉で基地と向かい合った昔の私たちに、どこか重なって見える。(石川昌義)

<岩国基地の歩み>

1945年 9月 米海兵隊が進駐し、岩国飛行場を接収
  50年 6月 朝鮮戦争始まる
  65年 2月 米軍が北ベトナム爆撃開始
  75年 4月 ベトナム戦争終結
  97年 6月 滑走路の沖合移設工事着工
2006年 5月 厚木基地の空母艦載機部隊の岩国移転を閣議決定
  10年 5月 沖合移設した新滑走路運用開始
  12年12月 岩国錦帯橋空港開港。民間機の就航が48年ぶりに再開

米軍基地と反戦運動

 米軍は戦後、旧日本軍の基地を各地で接収し、軍事拠点とした。朝鮮戦争で日本を前線基地とした米軍への反発は、基地に立ち入ったデモ参加者が刑事特別法違反罪で起訴された1957年の砂川事件で表面化。60年の安保闘争に拡大した。

 60年代後半はベトナム戦争が激化し、岩国や沖縄の役割が大きくなった。哲学者鶴見俊輔氏や作家小田実氏たち知識人が呼び掛けた「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」は非暴力活動を展開。全国で草の根的に拡大し、後の反戦運動に大きな影響を与えた。72年まで米国の施政下にあり、米軍基地が集中立地する沖縄では、基地の過重負担への反発が今も根強い。

(2015年9月14日朝刊掲載)

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