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連載・特集

毒ガスの島70年 忘れ得ぬ記憶 <1> 楽園

ウサギ人気 一方で爪痕

 一時は地図から消された島は、年間約19万人が訪れる観光地になった。竹原市沖の大久野島。旧陸軍の毒ガス製造工場があった島には貯蔵庫跡や発電場跡など戦争の爪痕が残るが、足を踏み入れて初めて知る人も少なくない。戦後70年。22日には島で毒ガス障害死没者の慰霊式がある。島の現状や被害者の今を追う。(山下悟史)

 「ここで兵器を造っていたとは」。米国フロリダ州から来たという大学生トム・ヒギンスさん(20)は言葉を詰まらせた。野生化したウサギが跳びはね、草をはむ。目の前の風景からは戦時中の島は想像できないという。

 市産業振興課によると、2010年に島を訪れた人は約15万2千人だった。11~13年は12万~17万人台。14年は約18万6千人へと大幅に増えた。約700匹いるといわれるウサギの動画がインターネットで紹介されたのが主因との見方が強い。14年は外国人観光客も5500人を超えた。

動画きっかけ

 ヒギンスさんもそうした一人。「友達に動画を見せてもらい来たいと思った」とウサギに会うのが一番の目的だったと打ち明けた。

 島には市が管理、運営する毒ガス資料館があり、当時の工員の手帳、作業服や製造装置などが並ぶ。1988年度開館。当初は年5万、6万人台の入館者がいたが、90年代後半から減少をたどった。2004~08年度は2万人台。その後じりじりと増え、14年度は4万9490人だった。

 「ただ、観光客増加に伴って増えている感じ」と市産業振興課。当時の実情を知り、学びたいという人がどれだけいるのか測りかねるという。また、5万人近くに回復したとはいえ、戦後50年の1995年度の約6万5千人には遠く及ばない。

 事実を知らないまま工員や動員学徒は毒ガス製造に従事。障害や体調不良に悩む人は今も全国で2千人を超える。中国などに遺棄した毒ガスは戦後も被害を引き起こしている。

平和への教材

 島の対岸、竹原市忠海地区の郷土史を研究する新本直登さん(64)は「楽園のようだが、戦争の傷は癒えたとは言えない。島は平和を考える教材でもある」と訪れた人に島の過去と向き合い、今も続く苦しみに思いをはせてほしいと願う。

 09年にはくしゃみ性ガス「あか筒」とみられる発煙筒が沖合に沈んでいるのが見つかった。国は詳細調査の末「安全面に問題ない」とした。広島大文書館(東広島市)の石田雅春助教(39)は「戦後70年を経ても、近くの海に有毒物質が沈んでいる可能性は否定できない」と指摘している。

大久野島
 竹原市忠海の沖3キロに浮かぶ。周囲4・3キロ、面積0・7平方キロ。忠海港からフェリーで約10分。旧陸軍が1929年から44年までイペリットガスやくしゃみ性ガスなど計約6600トンの毒ガス兵器のほか、風船爆弾の部品なども製造していた。軍事機密のため戦時中は地図から消された。今は毒ガス資料館や国民休暇村大久野島がある。被害者の遺族たちも毎年秋に島を訪れ、慰霊式を開いている。

(2015年10月14日朝刊掲載)

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