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記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 山本定男さん―下級生の死胸に命説く

山本定男(やまもと・さだお)さん(84)=広島市東区

鎮魂の念 合唱や証言に込める

 あの日の朝、普段(ふだん)通りなら広島市中心部の通学路を歩いていたはずだった。いや、爆心地近くで建物疎開(そかい)作業をしていたかも―。山本定男さんは70年前、広島二中(現観音高、西区)の2年生。原爆を生き延びられた偶然(ぐうぜん)は、「全滅(ぜんめつ)」した下級生の運命と表裏一体でもありました。「二度と繰(く)り返してはならない」。生き残った者の使命として、国内外に訴えています。

 当時、広島二中では1年生と2年生が毎日交代で建物疎開作業に駆(か)り出されていました。1945年8月5日が作業日だった2年生にとっては、6日は登校日。しかし戦争末期は勉強どころではありませんでした。東練兵場(現東区)でイモ畑の草取りをすることになりました。

 東練兵場に集合し、見上げると米軍機が飛んでいました。「空襲(くうしゅう)は夜間にあるもの。今日は偵察(ていさつ)だろう、というぐらいに思っていた」。しかし、機体が急旋回(せんかい)した直後、爆発音と、ものすごい熱風に襲(おそ)われました。

 爆心地から約2・5キロ。一緒(いっしょ)にいた200人余りは吹(ふ)き飛ばされ、山本さんは顔の左半分ほど、やけどしました。広島駅の方向に巨大な火炎(かえん)が立ち上っていました。「また爆弾(ばくだん)が落とされるかもしれない」。恐怖(きょうふ)の中、同級生と近くの山を目指しました。

 尾長(おなが)天満宮で息を潜(ひそ)め、尾長町(現東区)の自宅に戻(もど)ったのは夕方でした。家の中は爆風でめちゃくちゃになっていましたが、両親や祖母、2人の姉は無事。特に父は、爆心地から約680メートルのビルの中にいて奇跡(きせき)的に助かりました。

 一方、この日が建物疎開作業の日だった1年生321人と引率の先生4人は、爆心地から約500メートルの本川の土手にいました。全滅でした。「何が起きたかも分からないまま、その場で即死(そくし)した」。そう思い、胸を痛めてきました。

 ところが、69年、広島二中1年生の被爆状況(じょうきょう)を追った民放テレビの番組「碑(いしぶみ)」を見て衝撃(しょうげき)を受けます。

 大やけどした体を引きずり、家にたどり着いた生徒。川に逃れ、輪になって軍歌を歌い励(はげ)まし合った少年―。必死に親を求め、苦しんだ末に亡くなった下級生も少なからずいたのです。一人一人の姿を想像し、激しく動揺(どうよう)しました。

 あふれる鎮魂(ちんこん)の念を、会社勤めの傍(かたわ)ら続けていた合唱に込めました。9章からなる「男声合唱のためのレクイエム『碑』」を二中卒業生に創作してもらい、翌70年10月、山本さん自身の指揮で発表しました。会場の市公会(こうかい)堂(現在の広島国際会議場)は、本川土手の目の前。川べりに立つ慰霊碑に祈りを届けました。

 自身の被爆体験は「語る資格がないと思っていた」。転機は、5年前に受けたテレビ番組のインタビューでした。放送を見たという愛知県の高校教師から証言を依頼されました。生徒たちの真剣(しんけん)なまなざしに「私の話でも役に立つのか、と考えるようになった」。3年前から証言を始めました。

 修学旅行生だけでなく、海外からの訪問者にも語っています。おびただしい数の少年少女が犠牲になった事実を、数字や地図も示して説明。「悲劇が二度と繰り返されないよう、核兵器廃絶を達成しなければならない。そのための声を絶やしてはいけない」。犠牲者の無念を思いながら、命の尊さを説き続けます。(浜村満大)

私たち10代の感想

奪われた人生に心動く

 空襲(くうしゅう)でも火災が広がらないように、建物疎開(そかい)の作業に駆り出されていた1年生たちは、原爆投下後、巨大(きょだい)な炎(ほのお)にのみ込まれてしまいました。突然奪(とつぜんうば)われた人生を思い、心が揺(ゆ)さぶられました。生き残った者に何ができるか悩(なや)み抜き、私たちに体験を語ってくれた山本さんに感謝したいです。(中2プリマス杏奈)

苦しむ姿 あまりに残酷

 山本さんは、下級生の1年生が爆心地近くで全員即死(そくし)したと思っていました。やけどを負いながら家を目指し、同級生と励(はげ)まし合っていた子もいたと後で知り衝撃(しょうげき)を受けたそうです。苦しみながら死んでいった姿を思うと、あまりに残酷(ざんこく)です。核兵器は、子どもの運命も一瞬(いっしゅん)で変えてしまうのです。(中3中川碧)

思い知り背中押された

 「核兵器廃絶を求める声だけは絶やしてはいけない」。山本さんは3年前から被爆体験を語り始め、米国やロシア、エジプトの人たちにも証言しています。体が動く限り活動すると言われ、こちらが背中を押された気持ちです。世代や国境を越(こ)えて被爆者の思いを広める努力を受け継ぎたいです。(高2松尾敢太郎)

(2015年11月23日朝刊掲載)

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