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真珠湾攻撃70年 記憶語る 元航空機整備兵 府中の楠木さん

 日本がハワイを奇襲し、太平洋戦争開戦の舞台となった1941年12月8日の真珠湾攻撃に、府中町鹿籠の楠木優さん(89)は航空機の整備兵として加わった。敗戦後は米軍を恐れ、連合艦隊司令長官からの感謝状や、攻撃直後に写した真珠湾や零戦の写真を燃やしたという。70年の節目に、家族にもほとんど話していない記憶を語った。(鈴中直美)

 楠木さんは航空母艦「瑞鶴」に配属され、41年11月19日、大分県の別府湾を出航。間もなく真珠湾への攻撃を知らされたという。当時19歳。「そりゃたまげた。戦場に行くとはうすうす感じていたが、いよいよ始まると思った」と振り返る。

 攻撃前日は湾近くに停泊した艦の甲板で零戦のエンジンの調子を整えた。「当時は零戦は負けないと信じていた。怖くなかった」。夜明けからの第1次、第2次攻撃で瑞鶴など空母から計350機が出撃。「帰ってこいと願って送り出した。飛び立つ機影をはっきり覚えている」という。

 「艦上で聞いていた現地ラジオのにぎやかな音楽が突然消えた。攻撃が始まったと思った」。米側は戦艦アリゾナ撃沈など17隻、航空機188機が被害を受け、2402人が死亡した。

 真珠湾から始まった戦争はしかし、次第に状況が悪化。楠木さんは九州の特攻隊基地などに所属し、爆撃を受けて戦友が倒れる中、無我夢中で逃げたこともあったという。終戦後は古里の東広島市福富町に戻り国鉄職員に。戦友を置き去りにした後悔もあり、戦争には口を閉ざした。

 10年前、ハワイを旅行し、真珠湾の静かな海を見て平和の大切さをかみしめた。最近は海軍にいた人に会うと、戦争を話題にするようになった。真珠湾攻撃から70年の今月、連合艦隊の山本五十六司令長官に迫る映画の試写会が府中町内であった。知人の誘いで見に行き、平和への思いを強めたという。

 多くの命が失われた戦争に幕を開けた攻撃と、敗戦までの過酷な体験の記憶。「尋ねられれば少しずつ話したい」。楠木さんはいま、こう考えている。

(2011年12月21日朝刊掲載)

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