×

連載・特集

『生きて』 バレリーナ 森下洋子さん(1948年~) <3> 夜行列車

休みのたび 1人で上京

 バレエを始めて、一生続けたいという思いが私の中にドカーンと入ってきました。有名になりたいとか、きれいな衣装を着たいといった理由じゃない。ずっと続けたいという強い思いがドンと入ってきたのです。

 恩師の一人、洲和みち子先生と巡り合う
 葉室潔先生が、洲和先生の元で学んだ方がいいと、わざわざ私を連れて行ってくださった。洲和先生は心で踊り、心を厳しく鍛える人。はたきの棒があるでしょ。失敗すると、あれでぶつんです。「この根性なし」と叱る顔は忘れられない。これは、ありがたいことです。大人が本気で怒って、真剣に向き合ってくれる。バレエの技だけでなく、魂を磨いていく強さを学んだ。根性がなくちゃ、バレエは続けられませんから。

 江波小の1年生の時。広島市公会堂であった公演を見に行きました。東京の橘バレエ学校の生徒が踊っていた。小学5、6年生くらい。どうしてあんなに上手なんだろう。私も東京へ行って学びたいと思って。両親に頼み込んだんです。

 バレエ教室の先生のつてを頼り、冬休みに母と一緒に上京。橘バレエ学校の橘秋子先生と出会う
 橘先生の元に行くと、生徒が出演する公演に出させますと言われて驚きました。数日間、レッスンを受けて帰る予定だったのに「お母さん、もう帰っていいです」って。結局1人で東京に残りました。3カ月間ぐらいでしょうか。広島に戻った時には2年生になっていました。こんなこと、今では許されないでしょうけど。

 その後は、夏休みや冬休みのたびに橘バレエ学校に通いました。1人でです。新幹線もない時代。夜行列車で12時間。今だとニューヨークやロンドンに行けますね。当時は携帯電話もないし、自宅に電話もありません。東京駅に着くと、バレエ学校の先生が家に電報を打つ。無事着いた、と。ずっと後になってから聞いたのですが、母は電報が来るまで眠れなかったそうです。

 でも私は、うれしくてうれしくて。広島に帰っても「ママ、寂しかった」なんて言わない。帰った途端、また東京に行きたいと言うんだそうです。かわいげのない、変わった子だったの。

(2016年1月21日朝刊掲載)

年別アーカイブ