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連載・特集

『生きて』 バレリーナ 森下洋子さん(1948年~) <7> 海外巡って

「主役で契約」誘い断る

  東京都武蔵野市の吉祥女子高に進学。学業との両立に苦労した
 とにかく稽古、稽古の日々。登校して1時間だけ授業に出て、いったん稽古に戻り、またお昼から学校へ行くことも。中学も高校も、修学旅行や運動会は不参加です。下校時に友だちからお茶に誘われても時間がない。バレエ学校のみんなの食事も準備しなきゃいけないし。合宿のときには下級生の食事も、作りましたから。

 高校3年の3学期。出席日数が足りませんでした。卒業するために、いろいろと調べてくれた担任の先生に言われました。「これからは一日も休まないでくれ」。何とか毎日出席し、無事卒業できました。先生も喜んでくださいましたね。思い出すのは、私が主役の公演のときです。客席を見ると、後ろの席が吉祥女子の制服で埋まっている。みんなで来てくれて、うれしかったなあ。

  卒業後の1969年。経験を積むため、初めて海を渡る
 3カ月間、米国に行きました。日本で指導を受けたことのある現地の先生のレッスンを受け、各地のバレエ団の公演も見て回るためです。旅費は両親が出してくれました。その年の暮れも米国と欧州を訪れました。海外に行くときにお世話になったのが、東洋工業(現マツダ)の松田恒次社長です。

 「現地に知り合いがいない」と相談すると、商社の人を紹介してくれました。行く先々で商社の皆さんが出迎えてくださる。とても丁寧に対応してくださり、心強かった。広島で働いていた板前さんが米国で弁当のお店をやっているからと、アルバイト先も紹介してもらった。最初で最後のアルバイトです。朝早くから働いて、稽古が終わった夜に仕込みを手伝う。お弁当がもらえたので、食費が助かりました。

  海外を巡る中、いくつかのバレエ団から誘いがあった
 「主役で契約しないか」と言われたんですが、いまひとつ、ぴんとくるものがなく「私は日本人だから日本に帰ります」と断りました。こんな誘いは考えられない時代。なぜ断ったの、と周囲の人たちは不思議がっていましたね。いつもは口を出さない母も「もったいなかったわね」。ですが、大正解の決断でした。

(2016年1月27日朝刊掲載)

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