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連載・特集

『生きて』 バレリーナ 森下洋子さん(1948年~) <9> 世界の勲章

日本人初の金賞に輝く

  1974年、世界へ羽ばたく転機が訪れる。ブルガリアのバルナ国際バレエコンクールだ
 それまでコンクールに出たことがなく、全く興味がありませんでした。芸術は点数を付けるものじゃないと思っていたし。そんなとき、松山樹子先生が「一度出てみたら」と。私は25歳。同世代の世界の踊り手はどんな人たちなんだろうという思いもあった。そこで、世界で最も歴史のあるバルナのコンクールに出ることを決めたんです。

 バルナに出るといううわさは、ばーっと広がっちゃって。周囲の人たちからは「優勝ですよ」と言われ、すごいプレッシャー。そのとき、オリンピックの選手って大変だなって思った。アスリートはたった何秒かの差でメダルが決まる。精神的な力がないといけないし、自分自身との闘いだなと、しみじみ感じました。

  1位に値しないと金賞を出さない厳しいコンクール。後に夫となる清水哲太郎さんと2人で出場する
 100人以上が出場していました。1次予選は「ドン・キホーテ」。踊り終えると、お客さんがギャーって。今まで経験のない、すごい反応。審査員の先生の一人が次の日、私たちのホテルに来て言うんです。「洋子ちゃん、哲ちゃん、おめでとう」って。いやいや、まだ1日目ですっていうのに。それくらい反応が良かった。

 2次予選で、舞台袖で私たちの名前が呼ばれたとき。客席が沸いたんです。踊る前ですよ。そして決勝。「黒鳥」を踊りました。客席の反応から、もう優勝は決まっていたような手応えがありましたね。私は金賞を、清水は銅賞をいただいた。皆さんの期待が大きかったから「ああ、これで日本に帰れる」と、ほっとしました。

  日本人初の金賞は、世界へ出る大きなターニングポイントとなった
 金賞を受け、世界のいろいろな所から出演の声が掛かるようになりました。何より、日本人にもバレエができると、日本の人たちが見直すきっかけになったと思います。日本人にはバレエは向かないという目もあったから。日々真剣にバレエに取り組み、日本のバレエの土台をつくってくださった先生たちに、少し恩返しができたかなと。

(2016年1月29日朝刊掲載)

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