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連載・特集

緑地帯 「原爆の図」の旅 岡村幸宣 <3>

 広島の平和記念公園を訪れるたびに、原爆ドームの南側、観光客がにぎやかに写真撮影をしている辺りで足を止める。そこに高さ5メートルを超える三角屋根の体育館のような建物がある光景を想像する。かつて、敗戦後の数年だけ存在したという謎多き建物、五流荘だ。

 連合国軍占領下の1950年8月に、丸木夫妻は東京・日本橋と銀座で「原爆の図三部作完成記念展」を開催した。この時、早くも国内各地を巡る巡回展の構想が立ち上がる。

 10月、巡回展は広島から出発した。友人の画家・浜崎左髪子が繁華街の福屋百貨店や中国新聞社での展示を働き掛けたが、占領軍ににらまれる危険は高い。受け入れ先は見つからず、平和運動の拠点として自由に使うことのできた五流荘が会場となった。

 当時、この辺りで濁酒(どぶろく)屋をしていたという85歳の女性の証言。「わしゃ、ピカにおうとるけん、気持ち悪うて絵は見とらんよ」。被爆の記憶が生々しい広島で、必ずしも「原爆の図」は受け入れられたわけではなかった。展覧会を手伝ったのは、詩人サークル「われらの詩の会」の仲間たち。原爆ドーム前で撮られた記念写真には、峠三吉、四国五郎、深川宗俊、増岡敏和、林幸子らが並んでいる。丸木夫妻にとって彼らの応援は、どれほど心強かったか。

 プレスコードがあり、原爆被害が報じられなかった時代。きのこ雲でも焼け跡の風景でもなく、人間に焦点を絞ってその痛みを描いた「原爆の図」の評判は、次第に全国へと広がっていく。(原爆の図丸木美術館学芸員=埼玉県)

(2016年3月26日朝刊掲載)

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