×

連載・特集

緑地帯 「原爆の図」の旅 岡村幸宣 <4>

 2008年1月、丸木夫妻の書斎の押し入れから「原爆の図三部作展覧会記録」と題する資料を発見した。ガリ版刷りが時代を感じさせる。そこには1950年代初めの「原爆の図展」の日程や会場、主催・賛同団体など、これまで不明だった情報が丹念に記録されていた。公民館、学校、映画館、寺院、駅舎、書店、百貨店…。目を見張ったのは会場の多様さだ。展示できる空間があれば、「原爆の図」はどこでも展示された。

 記録を頼りに、当時の巡回展を見たという証言を掘り起こした。今まさに絵を見ているように熱く語る人や、涙ぐみながら感動を語る人たちと出会った。何しろ、占領軍の弾圧を警戒して大手メディアは報道せず、主催者もあえて記録を破棄する時代だったのだ。

 政治的な偏見も長く続いた。巡回展を担った関係者の一人は「今まで話せずにいたことをようやく話せる」とつぶやいた。沈黙の歳月の重さは、想像の及ぶものではなかった。「いつか、この話を聞きにくる人が現れると思っていた」と目を潤ませた姿は忘れられない。

 こうした巡回展によって、「原爆の図」は反戦平和運動の象徴として語られるようになった。とはいえ、絵の前に立つ人々の思いがさまざまだったことも見逃せない。「表面的な連帯の底辺の、バラバラな顔」。「原爆の図」を背負って各地を旅したヨシダ・ヨシエは、後に記した。「100万人が見た」といわれる巡回展で、人は100万通りの「原爆の図」に出会っていた。(原爆の図丸木美術館学芸員=埼玉県)

(2016年3月29日朝刊掲載)

年別アーカイブ