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連載・特集

緑地帯 「原爆の図」の旅 岡村幸宣 <6>

 1960年代の原水禁運動の分裂は「原爆の図」にも影響が及んだ。10年に及ぶ世界巡回から帰国した「原爆の図」の報道が、当時ほとんど見当たらない。華々しく海外に出発した50年代の熱気は、幻のように冷めていた。丸木夫妻は「これからは絵を手もとに置こう」と決め、67年5月、埼玉県東松山市に原爆の図丸木美術館を設立する。1日に1人でもいい、ここに来れば「原爆の図」を見ることができるように、との思いだった。

 「原爆の図」に安住の地ができた。それでも「原爆の図」の旅は終わらなかった。70年代後半から80年代には、世界的な反核運動の隆盛とともに、新たな市民運動によって再び国内各地で「原爆の図展」が開かれた。国外でも、米国やフランスで大規模な巡回展が開催された。

 平和や反核を訴える役割が高く評価される一方で、芸術的な評価は後れを取った。美術界には「反戦平和のプロパガンダ」との見方も根強かった。

 90年代に入って「原爆の図」を「絵画」として読み直し、新たな命を吹き込んだのは、若き日に巡回展を担い、美術批評家となったヨシダ・ヨシエだった。「『原爆の図』はこれからもっと新しく読まれる」。彼はそう予見した。再び世界の人の注目を浴び、「絵に向き合う私たちを刺激し、核時代の強い想像力を要求する」と。

 丸木位里は95年、丸木俊は2000年に没した。ヨシダも今年1月、20年ぶりの「原爆の図」米国展の成功を見届けるように息を引きとった。(原爆の図丸木美術館学芸員=埼玉県)

(2016年3月31日朝刊掲載)

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