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社説・コラム

『今を読む』 哲学者・甲田純生 

原爆と「1Q84」 世界の変質 認識した演説

 5月、米国のオバマ大統領が広島の地を踏んだ。私たちはそのことを、まずは肯定的に受けとめるべきだろう。

 米国では原爆投下を非とする意見もある一方で、投下後にトルーマン大統領が出した声明が今も生きている。本土決戦で失われたであろう多くの米兵の命を救い、戦争を早期に集結させたという見解である。戦後70年を過ぎても、なぜこのような意見が根強く残っているのだろうか。

 もし原爆投下を公式に非と認めることになれば、米国の正義と国家としての誇りは踏みにじられることになるかもしれない。だが、果たしてそれだけが理由だろうか。人が理不尽な見解を正論として主張したがるときには、背後に強い無意識的情動が隠れているものだ。

 哲学者カントは、物事を正しく思考するためには次の三つの規律に従わなければならない、と言っている。それは、自分の頭で考えること、相手の立場に身を置いて考えること、自己矛盾することなく考えること―である。

 相手の立場になって考えてみるということは、原爆を投下した側に身を置いてみるということである。第2次大戦で日本が他国にも先駆けて原爆を開発し、相手国に使用した、と仮定することだ。その場合、私たちは原爆を使用した唯一の国の国民であることを誇りに思うだろうか。

 いや、誇りに思うどころか恐ろしくて仕方がないのではないだろうか。一瞬にして多くの人の命を奪い、その後も助かった人たちを後遺症で苦しめ続けるおぞましい兵器を自分の国が使用したことに対し、どうしていいかわからなくて、その事実から目を背けたくなるかもしれない。

 同じように、米国民の多くも、原爆投下の事実を直視する恐怖から逃れるために、強迫観念的に原爆投下を正当化しようとしているようにも見える。なぜか。原爆が非人道的な兵器だからだろうか。もちろんそれもあるだろう。

 しかし非人道的であるのは原爆だけではない。都市への無差別爆撃も、ベトナム戦争で使用されたナパーム弾や枯れ葉剤も、すべて非人道的なのだ。だが、原爆にはこれらと同列に論じることのできない何かがある。それは村上春樹が小説「1Q84」で描き出したのと同じものだ。

 主人公青豆と天吾は、ある日突然、月が二つあってリトル・ピープルが力を持つ世界へと紛れ込んでしまう―。もとの世界が1984年であったのに対して、その世界は1Q84と呼ばれる。この二つの世界は、パラレルに存在している二つの世界なのではない。1984年の世界が1Q84年の世界へと変わってしまったのだ。あたかも、そこでレールのポイントが切り替わったかのように…。

 村上春樹がこの作品で描こうとしたのは、世界はある日を境に突然変わってしまうことがある、ということだ。たとえほとんどの人がその事実に気づかなくても。そして実際、人類が原爆を手にしたその日から、「世界は変わってしまった」のである。

 哲学者ヘーゲルは、量の変化はある限度を超えると質の変化をもたらす、と述べている。馬の尻尾から毛を1本抜いても尻尾であることに変わりはない。だが、延々と毛を抜き続けると、どこかで尻尾は尻尾でなくなるだろう。

 原爆や水爆は「一瞬」にして「何十万」もの命を奪う「比類なき」兵器だ。この比類のなさがもたらしたのは、人類が全人類を自ら殲滅(せんめつ)する力を持ってしまったということである。人類は、すべてが無に帰する可能性を手にしてしまった。そのとき、もとの世界から、一瞬にしてすべてが無となる可能性を秘めた世界へと変質したのだ。

 オバマ大統領の演説は抽象的で、一度聞いただけでは分かりにくく、多くの市民を失望させたかもしれない。

 ただ、原爆によって人間の世界が根底から変容してしまったこと、またそのことによって人類は新たな道義的責任を背負うことになったのだという認識を、あの演説は決して欠いてはいないと思う。

 65年大阪府門真市生まれ。大阪大大学院博士後期課程単位取得満期退学。広島国際大准教授。専門はドイツ観念論。著書に「多崎つくるはいかにして決断したのか」「1日で学び直す哲学」など。

(2016年7月23日朝刊掲載)

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