連載・特集

「梟」の伝言 戦後71年 原爆と表現 <下> 安易な「ヒロシマ」

拒絶 激しい論争巻き起こす

 1953年1月25日の中国新聞夕刊。当時、広島市中心部で文化人たちが集う酒場「梟(ふくろう)」を開いていた文筆家志條みよ子(1923~2013年)が「『原爆文学』について」と題して寄せた文は、後に「第1次原爆文学論争」と呼ばれる議論の口火となった。

 「なにかといえばすぐに原爆々々といまだにいわれている。原爆を書かない小説や原爆を取上げない絵画は広島の人間に限り、真の作品ではないごとくいわれている。(略)もうそろそろ地獄の絵を描いたり、地獄の文章ばかりをひねり上げることからは卒業してもいいのではないか」

 6日後の31日、当時の広島中央百貨店重役が「悪意に満ちた広島市民に対する言葉」と反論を寄せると、文芸関係者や研究者、教員、主婦ら幅広い読者から賛否の投稿が相次いだ。紙上討論は長短20編以上、2カ月余りにわたった。

 志條の寄稿全体をよく読めば、必ずしも原爆文学を否定しているのではなく、根本にある人間の意識こそが問題と主張しているのが分かる。だが、「いつまでも原子爆弾にこだわっていることからは出発しない」「男と女の限りない悲しみのことを考える方が大切である」「原爆は科学であり、政治であり、何かへの一つの道具であるが、芸術ではない」といった刺激的な言葉は、被爆の記憶が生々しいこの時期、多くの読者の心に引っ掛かったようだ。

 「梟」に通い、志條を姉のように慕ったという作家の小久保均(86)=南区=は当時、「原子爆弾は確かに文学の対象たり得る」として論争に加わった。「原爆と文学という言葉が結びつくこと自体、志條さんには違和感があったのかもしれない」と振り返る。

 この論争は同年4月、志條や小久保のほか、阿川弘之ら地元ゆかりの作家を交えた座談会で収拾が図られた。志條は「原爆の文学を否定したわけじゃありません、今までに現れたままの状態のものに安易に原爆文学という名前を付け、この状態が今後も続くということに対する不安を言いたかった」と述べた。67年にも中国新聞の取材に「惨状を書くばかりでなく、人間の意識の根源的なものを追求すべきだという意味」と真意を説いている。

 同人誌「安芸文学」を主宰し、原爆文学に詳しい岩崎清一郎(85)=東区=は「原爆文学を巡ってこれだけの議論を巻き起こした文章は、後にも先にもない。多様な立場の市民を巻き込んで原爆と表現について考えさせた意義は大きい」と話す。

 論争と並行し、志條は53年3月、女性による同人誌「女人文芸」を創刊している。翌年に2号、60年に復刊第1号を発行し、63年までに計7冊を出した。志條が原爆を正面から扱ったものはないが、被爆後に目が弱くなった自身とおぼしき主人公を創刊号の小説に登場させ、こんな言葉を語らせている。

 「黒い眼鏡をかけて、努めて強い光線を避けて暮らさねばならぬ不自由の悲哀は、所詮は、この世が平和で、戦争などのない、再び過去のまるで政治と科学に依って蹂躙された阿修羅の様な生活のない、楽しい世界であることを願ふ心に帰する」

 66年に酒場から画廊に形を変えた「梟」でも、自己の内面を見詰めて創作に挑む若い画家たちを応援した志條。被爆者として忘れられない記憶があるからこそ、原爆を「売り」にしたり寄りかかったりする表現には、違和感を隠さなかったのだろう。

 被爆から71年、体験者がますます減ってゆく中、ヒロシマの表現はどうあるべきか。分かりやすい紋切り型を拒絶することに芸術の可能性を見た志條の志は、厳しくも価値ある示唆を与えてくれる。=敬称略(森田裕美)

(2016年8月6日朝刊掲載)
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