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妻に代わり伝える悲劇 本川国民学校生で唯一の生存者 横浜の居森さん

がん闘病中も証言 「半世紀一緒 全部分かる」

 「私より一日でも長く生きて原爆のことを伝えて」。居森公照(ひろてる)さん(81)=横浜市南区=は4月に82歳で逝った被爆者の妻の遺志を継ぎ、5日、広島市中区の本川小に立った。半世紀余り連れ添った清子さんは同小の前身、本川国民学校で被爆。爆心地から約410メートル。その時いた児童の唯一の生存者として、重複がんと闘いながら核兵器の恐ろしさを証言し続けた。被爆者ではない自分が語り継ぐ―。その決意を胸に、居森さんは6日を迎える。(久保友美恵)

 11年ぶりに広島を訪れた居森さん。登校日の集会があった同小を訪ねた。1989年、初めて清子さんが証言した母校。校舎の靴脱ぎ場で浴びた閃光(せんこう)、飛び込んだ川で見た次々と流れる遺体、家族や級友を失ったつらさ…。同校はその体験を伝える劇を創作。2005年から毎年児童が演じ、学んでいた。

 「清子は皆さんが自分のことを劇にしてくれて本当にうれしいと言っていました。爆心地の学校として、核兵器をなくすよう訴え続けてください」。児童約400人に、居森さんは1人で伝えた。

 かつては病魔と闘う清子さんをサポートし、証言活動に回った。毎回、聞く人の年齢に合わせた言葉遣いを一緒に考え、時間を計って話す練習をした。証言の際はそばに寄り添った。体調不良で声が出なくなった清子さんに代わり、言葉を紡いだ時もあった。

 清子さんは3年前、自宅で寝たきりに。「語り継いでね。半世紀も一緒にいるから私のこと全部分かるでしょ」。「大丈夫。清子の使命は俺が受け継ぐよ」。居森さんは妻から頼まれるたび、そう答えていた。

 今回の児童との対面は、居森さん自ら同校に申し入れて実現した。妻との約束を果たすためだった。

 妻を亡くして初めて迎える原爆の日は、広島で過ごす。香川県の出身。妻の記憶を語る上で、他の被爆者や広島の若者の考えを知りたいと考えたからだ。「清子は口と手しか動かせない状態でも自宅を訪ねてくれた人に証言し続けた。私も自分の責任を果たしたい」

(2016年8月6日朝刊掲載)

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