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新藤兼人監督が死去 反戦貫き人間愛描く 100歳

 文化勲章受章の映画監督・脚本家で、「原爆の子」「裸の島」などで知られ、国内最高齢の現役監督として活躍を続けていた新藤兼人(しんどう・かねと、本名兼登=かねと)さんが29日午前9時24分、老衰のため、東京都港区赤坂の自宅で死去した。100歳。広島市佐伯区出身。葬儀・告別式は6月3日午前11時半から東京都港区芝公園4の7の35、増上寺光摂殿で。喪主は次男で映画プロデューサーの次郎(じろう)氏。(串信考)

 広島市佐伯区五日市町の旧石内尋常小高等科卒。金融恐慌で生家が没落し、尾道市の兄の元へ。新興キネマ(当時)を経て松竹大船撮影所(同)の脚本部員。旧海軍に召集され戦後、大船撮影所に復帰した。1950年、独立プロの先駆である近代映画協会を設立。翌年「愛妻物語」で監督デビューし、2011年の「一枚のハガキ」まで49本を製作した。

 1952年の「原爆の子」は、原爆を直接取り上げた初の劇映画で、国内外で反響を呼んだ。ビキニ水爆実験の被災を描いた「第五福竜丸」、広島原爆で全員被爆死した移動演劇隊「桜隊」の悲劇を再現した「さくら隊散る」など、原水爆を告発した映画は5作品に上る。常に反戦を貫いた。

 三原市の宿祢(すくね)島を舞台に撮った、せりふのない映画詩「裸の島」が、61年のモスクワ国際映画祭グランプリに輝いた。

 少年の連続殺人事件を題材にした「裸の十九才」、家庭内暴力を題材にした「絞殺」、老いをテーマにした「午後の遺言状」「生きたい」など、人間愛をベースに社会に問題提起する作品を次々と発表した。

 94年に死去した俳優で妻の乙羽信子さんは「愛妻物語」以来の協力者。「午後の遺言状」は肝臓がんに侵された乙羽さんの余命を知り脚本を書いた。

 90歳を超えた2003年に「ふくろう」を撮影し、07年に広島市や三次市、周南市、浜田市などでロケした「石内尋常高等小学校 花は散れども」、自らの戦争体験を基にした最新作「一枚のハガキ」を製作した。

 脚本家として「しとやかな獣」(川島雄三監督)「けんかえれじい」(鈴木清順監督)などを残した。原爆投下の瞬間を映像化する「ヒロシマ」の脚本を書き、映画化へ意欲を見せたこともある。

 02年に文化勲章。2度グランプリを受賞したモスクワ国際映画祭では03年に特別功労賞。広島県の名誉県民、広島市、三原市の名誉市民。

時代鋭く見通す 広島県の湯崎英彦知事の話

 わが国を代表する世界的な映画人で先月、100歳の誕生日を迎えられたばかり。残念でなりません。映画への卓越した感性や時代を見通す鋭い視点によって、一貫して人間の内面をテーマとして映画づくりを進められた。また、原爆をテーマとした作品を世に出され、国内外から高い評価を受けた。終生にわたる映画への情熱や平和への思いは末永く受け継がれると確信しています。

評伝 新藤兼人さん わが道100年 原点は広島 挫折を糧に

 新藤兼人さんが亡くなった。映画ひとすじに生きた100年。原爆や貧困、家族などをテーマに「作りたいものを作る」に徹してきた。資金難で完全に行き詰まっていたとき、三原市沖の無人島を舞台にした「裸の島」が世界的にヒット。ドラマチックな生きざまそのものが、まるで一本の映画のようだった。

 2007年、出身地の広島市佐伯区五日市町石内で、48本目の監督作品「石内尋常高等小学校 花は散れども」のロケがあった。監督は95歳。すでに車いす生活だったが、カチンコが鳴ると、目つきは鋭く、妥協を許さない雰囲気があった。

 09年の夏には新聞連載のため、長時間のインタビューを行った。何度も挫折を味わいながら、挫折体験そのものまで映画作りのこやしにする、実にタフな生き方を教えられた。

 新藤さんは石内の恵まれた農家に生まれたが、小学生のころ家が没落。中学に進めず、広島を離れ尾道市の兄の家に身を寄せた。やがて映画監督を志し、京都の映画会社に粘って入社するものの、書きためたシナリオはさっぱり売れなかった。

 戦後、自由な創作を求めて近代映画協会を設立。「経済的には苦労したが、挫折を乗り越え、乗り越え、やってきた」「農家に生まれたからね。農民のすごさを見ているわけよ」「石段は一段ずつ上がらないと上がれない。だから恐れるものはないんだ、一段ずつ上がればいいんだ」

 監督のそんな言葉から、強じんな生きざまの源はどこにあるのだろうと考えた。やはり故郷広島の大地にあったのだと、強く思う。

 新藤映画の原点がどこにあるかは、いろいろ意見があるだろう。京都で初めて入った映画会社での下積み、名匠といわれた映画監督溝口健二との出会い、近代映画協会の設立など転機になった出来事は多い。だが、私は新藤映画の本当の原点は広島にあると思う。

 戦時中、映画作りが絶望的な状況の中で、新藤さんが取り組んだのは「近代劇全集」をすべて読破することだった。数カ月後、ある脚本募集で入賞。運が次第に上向き始める。題は「強風」、家の没落がモデルだった。

 もし監督の生家が没落しなかったら―。もともと裕福な農家。順調に中学に進み、別の人生を歩んでいただろう。心の傷を負うことはなかったかもしれないが、98歳の「一枚のハガキ」まで現役だった「巨匠」は誕生しなかったかもしれない。

 京都市の妙心寺の塔頭(たっちゅう)の一つ、衡梅院には新藤さんが妻の乙羽信子さんのために建てた墓がある。墓の正面には「天」の文字。側面に新藤さんと乙羽さんの名前が彫ってある。

 2人はきっとねぎらい合っているだろう。だが、監督にはぜひもう一度里帰りをし、地元のファンの前に姿を見せてほしかった。もうかなわないと思うと本当に残念である。(串信考)

新藤兼人さんの足跡

1912年 現在の広島市佐伯区五日市町石内で、農家の5人きょうだいの末っ子として4月22日に生まれる。本名兼登
  27年 石内尋常小高等科を卒業。生家は金融恐慌のあおりで没落し、尾道市で警察官をしていた兄のもとに身を寄せる
  33年 山中貞雄監督の「盤嶽(ばんがく)の一生」を尾道市で見て映画界入りを志す
  34年 新興キネマ京都撮影所に入り、現像部に配属される
  35年 東京撮影所に移り、美術助手に
  39年 スクリプターだった久慈孝子と結婚
  41年 溝口健二監督の「元禄忠臣蔵」のセット美術を担当。監督のもとでシナリオ修業に入る
  43年 情報局の国民映画脚本公募で「強風」が入選。孝子夫人が病死。松竹大船撮影所の脚本部員となる
  44年 応召で呉海兵団に入営
  45年 宝塚の海軍航空隊を除隊。大船脚本部に復帰
  46年 終戦後の尾道が舞台のオリジナル脚本「待ちぼうけの女」(マキノ正博監督)で認められる。美代夫人と再婚(後に離婚)
  47年 吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」で脚本家としての評価を固める。以降、49年の「お嬢さん乾杯」(木下恵介)などヒット作を続々と放つ
  50年 吉村監督とともに松竹を退社し、独立プロの近代映画協会を創設。俳優の殿山泰司らが参加
  51年 故孝子夫人との生活を描いた大映の「愛妻物語」で監督デビュー。夫人役は乙羽信子。以降、乙羽は同志として新藤作品への出演を続けていく。「偽れる盛装」(脚本)
  52年 大映「雪崩」。近代映画協会が劇団民芸と共同した初の製作映画「原爆の子」を監督
  53年 「縮図」「女の一生」。「原爆の子」をカンヌ国際映画祭に出品。米国が圧力をかけ、受賞に外務省が妨害工作を試みていた(89年の外交文書公開で判明)
  54年 「どぶ」
  55年 「狼」
  56年 英映画協会が「原爆の子」を55年度世界最優秀映画の国連賞授賞作品に決定。「銀心中」「流離の岸」「女優」
  57年 西ドイツで上映中の「原爆の子」が反戦映画として軍当局に没収される。石原裕次郎主演で「海の野郎ども」
  58年 「悲しみは女だけに」。田中絹代主演
  59年 ビキニ水爆実験の被災を描いた「第五福竜丸」。「花嫁さんは世界一」。三原市を舞台に「らくがき黒板」
  60年 「裸の島」。三原市沖合の宿祢(すくね)島を舞台に撮影
  61年 「裸の島」がモスクワ国際映画祭グランプリとなり、次回作の費用も確保し、近代映画協会の解散を免れる
  62年 野上弥生子原作から素材を取った「人間」。「斬る」(脚本)「しとやかな獣」(同)
  63年 杉村春子主演の「母」を広島ロケ
  64年 「鬼婆」
  65年 「悪党」
  66年 「本能」。「けんかえれじい」(脚本)
  67年 「性の起原」
  68年 「藪の中の黒猫」「強虫女と弱虫男」
  69年 三原市をロケ地にサスペンス「かげろう」。性を通し、人間を描く映画づくりを続ける。「触角」
  70年 実際にあった少年の連続殺人事件を題材に「裸の十九才」。後にモスクワ国際映画祭金賞
  72年 「鉄輪(かなわ)」「讃歌」。「軍旗はためく下に」(脚本)
  73年 「心」
  74年 「わが道」
  75年 溝口健二の生涯をたどった記録映画「ある映画監督の生涯」で、キネマ旬報ベストワン、同監督賞など各賞
  77年 「竹山ひとり旅」。中国放送との製作でテレビドキュメンタリー「8・6」
  78年 「事件」(脚本)。乙羽信子と結婚
  79年 「絞殺」
  81年 「北斎漫画」
  82年 姉久代を描いたドキュメンタリー「祭りの声」を中国放送と共同製作
  84年 「地平線」
  85年 「白い町ヒロシマ」(脚本)
  86年 「ブラックボード」「落葉樹」
  88年 広島原爆で9人全員が被爆死した移動演劇隊「桜隊」の長編記録ドラマ「さくら隊散る」
  92年 永井荷風原作の「濹東綺譚」
  94年 乙羽信子が12月、70歳で死去
  95年 「午後の遺言状」公開。山路ふみ子映画賞を受賞
  97年 文化功労者に
  99年 「生きたい」。モスクワ国際映画祭グランプリ
2000年 殿山泰司をモデルに描いた「三文役者」。主演は竹中直人
  01年 「大河の一滴」(脚本)
  02年 文化勲章受章▽広島県名誉県民
  03年 三原市名誉市民、広島市名誉市民
  04年 大竹しのぶ主演「ふくろう」
  08年 小学校時代の恩師をモデルにした「石内尋常高等小学校 花は散れども」
  11年 「一枚のハガキ」

<新藤兼人監督の著作集などを参考に作成、敬称略>

語録

 「(生家が没落し、尾道市の兄の家に居候していた当時)すごい映画に出合った。尾道の『玉栄館』という映画館で見た。山中貞雄監督の『盤嶽の一生』で、人の生き方を考えさせる、知恵の働いた映画だった。『これだっ』と思った、突然ね、映画をやろうと思った」(1990年、中国新聞「私の道」)

 22歳、京都の新興キネマ撮影所の現像部に配属。「フィルムを水洗して乾かす乾燥場の仕事。当時活躍していた田坂具隆監督(三原市出身)らの作品もやった。撮影所で手に入れたシナリオを片っ端から読んだ」(「私の道」)

 旧海軍に召集され、海軍航空隊が使っていた宝塚劇場で1945年8月15日を迎える。「もう上官に会っても敬礼するやつもいない。上官の方がこそこそ逃げていく。軍隊の虚構性がむきだしになった」(「私の道」)

 「戦後、松竹に5年いて多少力もついたし、自由な身になって力試しをしたいと思った。(50年3月、独立プロダクションの近代映画協会を設立)」(「私の道」)

 乙羽信子さん(94年死去)主演の「愛妻物語」で監督デビュー。「乙羽君が実に(戦時中に病死した妻の)久慈孝子さんそっくりだった。顔がまるい、横顔もそっくり。乙羽君がスカッと孝子さんと入れ替わった」(「私の道」)

 「『原爆の子』を映画にするのに『愛妻物語』で仲良くなった民芸の宇野重吉さん(故人)に協力を頼んだ。神奈川県逗子市から重ちゃんに電話すると、電話に出た人が『関西で公演があって東京を出発した。でも横浜駅でなら会える』と言った。急いで横浜駅へ行ったら、ちょうど重ちゃんが乗った『つばめ』がホームに入ってきた。窓の外から列車の中の重ちゃんに『共同製作しないか』と言ったら、『いいよ、金はどれぐらい?』と言う。『(近代映画協会と民芸が)150万ずつ』と答えた。重ちゃんは『OK』と言ってくれた。これで話が決まった」(「私の道」)

 「昭和24、25年ごろから雨後のたけのこみたいに100くらい独立プロができていた。しかし金がない。10年ぐらいでほとんどつぶれた。『第五福竜丸』も興行的には振るわなかった。近代映画協会もぎりぎりのところにきた。僕はどうせ解散するならまるっきり純粋に、会社とも世の中とも妥協しないものをやってみようと思った。それが『裸の島』だった」(「私の道」)

 「僕は性を隠微な秘密のものではなく、もっとおおらかなものだと思ったし、人間と人間を結び付ける一番根源的な要素として追究したかった。『鬼婆』は僕が子どものとき母から聞いた仏教説話の『肉付きの面』がもとになっている。これも独立プロの集団方式でやった。僕も一番元気のいいときだった」(「私の道」)

 「私が何かを作ったり考えたりするのは、すべて広島や石内と関係がある。昔は『笑われるのではないか』と隠していた広島弁も今は誇りを持っている」(2003年、母校石内小での講演)

 「人一人殺しても死刑になることがあるのに、戦争はたくさん殺したら勲章がもらえる。原爆の風化を言うけれど、どんどん出版したり映画を作ったりしないといけない。イラクのように世界が混乱する時代に、ヒロシマから何を発言するかは重大です」(03年、故松重美人さんとの対談)

 02年に文化勲章を受章。「独立プロでジグザグの道をたどっている間に、たくさんの同志が亡くなった。カメラマン、プロデューサー、スタッフ。乙羽さんや殿山泰司さん(1989年死去)という近代映画協会の象徴のような俳優たちも、身をなげうつようにして協力してくれた。そういう人たちの霊にささげたい、と思いましたね」(09年、中国新聞インタビュー)

 「僕の映画人としての理念はね、映画は映像である、映像で押して、押しまくっていけば、必ず真実はつかめる。(『裸の島』は)それでわざわざせりふを抜いた映画なんですよ。(モスクワ国際映画祭でグランプリを取ったとき)懸命にやれば何か目に見えないものが後押ししてくれるんだと思った。外国に売れたのはせりふがなかったこともあるが、映像が持つ力がびしびし伝わったんだと思う」(09年、中国新聞インタビュー)

 映画「一枚のハガキ」は、新藤監督は外れたものの、上官が引いたくじで60人が選ばれ、フィリピンへ送られる途中、輸送船が潜水艦の攻撃で沈み、全員が死亡した実体験が基になっている。

 「軍隊では人の運命がくじで決められた。当たっていたら僕はここにいない。その人たちが身代わりになったおかげで生きている。僕の心の底でずっと重荷になっている」(10年、東京都調布市の日活撮影所)

新藤兼人監督死去 気骨のメガホン 核への怒り 原動力 仕事一筋 後進に影響

 100歳まで現役の映画監督を貫いた新藤兼人さんは「原爆の子」をはじめ多くの作品で原爆に対する怒りを描き続けた。平和への思いは生きることへの希望につながり、ロケ地にも選んだ古里広島への愛情にも結びついた。

 反骨の映画人生を記憶にとどめる人は多い。広島市西区の映像作家の田辺雅章さん(74)は、手記集「原爆の子」に体験談を寄せた。中学2年の時、映画「原爆の子」の撮影前に広島市を訪れた新藤さんを、自宅があった広島市中区の原爆ドームそばなどに案内し、被爆体験を伝えた。「約10日の滞在中、一度も笑顔を見なかった。真剣に映画と向き合う表情がまぶたに焼き付いている」と振り返る。

 映画「原爆の子」で原爆症の少女を演じた広島市西区の松木恒子さん(74)も「口数の多くない、仕事一本の方でしたね」と懐かしむ。「東日本大震災以後は、福島への思いも募っていたはず」と尽きぬ制作意欲に思いを寄せた。

 後進にも熱い思いを植え付けた。50年来の付き合いの映画監督の神山征二郎さん(70)=東京都三鷹市=は新藤さんがやり残した作品への思いを語る。「原爆が爆発する瞬間を描く『ヒロシマ』に情熱を燃やしていた。お手伝いに駆け付けるつもりでいたが、残念」

 新藤さんの生家から約1キロの広島市佐伯区八幡地区に住む、アマチュア映像作家の川本昭人さん(84)は「居酒屋で作品の編集について相談に乗ってもらった。仕事に対して誠実で威厳があり、あこがれの存在そのものだったのに」と惜しんだ。

 妻乙羽信子さんとの心の通い合いも強い印象を残す。シネマキャラバンVAG副代表の友川千寿美さん(59)=同市南区=は1988年、映画「さくら隊散る」の公開時に同市内を案内した。「細やかな心配りで、当たり前のように監督を支える乙羽さんの姿が忘れられない」という。「二人は夫婦であり、戦友であると実感した」

 「裸の島」のロケ時に主演の乙羽さんの宿泊場所として自宅を提供した三原市の堀本逸子さん(72)は、4月に東京の誕生会に参加した際「いつまでもお元気で」と声を掛けると新藤さんは「ありがとう」と笑顔で応えたという。元気なころの新藤さんに思いをはせ声を詰まらせた。

 新藤さんが名誉市民である、広島市の松井一実市長は「功績は極めて顕著で、深い悲しみを禁じ得ない」、三原市の五藤康之市長は「市民を代表して哀悼の意を表します」とコメントを出した。

(2012年5月31日朝刊掲載)

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