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社説・コラム

『論』 謝罪あふれる国 誰もが標的になる怖さ

■論説委員・田原直樹

 すみません。人に呼び掛けたり親切を受けたりして言う。日に何度口にするだろう。電話で「もしもし」の代わりに使う人もある。

 謝る言葉のはずなのに、本来の意味を失って記号化し、あいさつに使われる。考えてみればおかしな感じだが、嘆かわしいと思うのも早計だろう。謝意や呼び掛けに用いても気持ちは通じ、人間関係を円滑にしている面がある。

 もちろん謝罪にも使うはずだが、東京などの満員電車では人々がぶつかり合って乗降しても、その一言を聞かない。ぎすぎすした空気があり、不快にも思う。

 人は謝らなくなったのか。そうではない。人が抜き差しならぬ事態で謝罪をしたり、迫られたりする場面がむしろ増えていないか。

 公共施設や店で客や利用者が怒り出し、職員や店員がわびているのに出くわす。他にも著名人や政治家、企業による謝罪が目立つ。年明けからタレントのベッキー、SMAP、三菱自動車、舛添要一前都知事…と、引きも切らない。「罪」の軽重も、それぞれに異なる。もちろん社会的な影響や被害が大きく、深く真摯(しんし)な謝罪が求められる事例も少なくない。

 若手俳優が女性を暴行した疑いで逮捕された。後に不起訴処分となるが、発覚直後に母親の女優が会見して謝罪した。息子は成人なのに親が謝罪すべきかと議論が沸いた。被害者よりも業界向けともとれる内容が批判を呼んだ。

 さらに会見での記者による質問がひどすぎるとして、ネットでたたかれ、記者が謝罪するはめに。ワイドショーのコメンテーターによる発言も不適切だと指摘されて…。謝罪の連鎖が止まらない。

 書店に謝罪の仕方を指南した本が並ぶ。万が一の時、謝罪会見を上手にやって乗り切れるように、予行演習する企業向け講座まである。不誠実と受けとめられたら、大変な事態を招きかねない。今や危機管理の一つであるらしい。

 「謝罪大国ニッポン」という新書で、ライター中川淳一郎さんがユニークな視点を示している。いわく、日本には茶道や剣道と同様に「謝罪道」がある。神妙な表情や、反省している感じなどの「型」が大事なのだという。もし型から外れ、様式美を欠けば、「謝罪評論家」となった大衆の批判を浴びることになる。

 それにしても、人はなぜ謝罪を求めるのか。誰かに謝らせたい心性があるのだろうか。

 心理学者の速水敏彦さんは著書「他人を見下す若者たち」の中で「仮想的有能感」を持つ人が増えたと考察する。他者を軽視し、見下ろすことで、自分の方が優れていると満足する感覚らしい。

 競争社会において、多くの人が無意識のうちにこの感覚を抱いているのだろうか。何かに怒り、誰かを謝らせることで、満たされる向きがあるかもしれない。

 ある経験を思い出した。社会のある風潮にコラムで触れた際、苦情を受けたことがある。「私を非難するのか」「謝れ」と主張された。見も知らない読者を批判するわけがない、一般論を記しただけだと説明しても平行線だった。

 自分と無関係なことまで謝罪要求の標的とされる。会員制交流サイト(SNS)も発達し、ネット空間はさまざまな出来事を評価したり、断罪したりする舞台となりつつあるという。匿名で気軽に、無責任に批判し、たたく。謝罪するよう促しもする。

 憂うべき風潮と言わざるを得ない。謝るほどのことでもないのに謝罪を迫られる、あるいは逆に、自ら謝罪すべきだと思い込む―。そんな社会になりはしないか。

 最近見た謝罪の場面が忘れられない。レスリングの吉田沙保里選手である。リオ五輪で「銀」を取ったのに、「取り返しの付かないことをして、ごめんなさい」と泣きじゃくった。本人も敗れて悔しかったはずだが、吉田選手に謝らせたのは何だったろう。今、この国に流れる空気だろうか。

 社会には当然、謝罪しなければならない不始末がある。当事者がけじめをきっちりとつける必要がある。しかし一方で、常にわびるように迫る社会の空気は息苦しく、恐ろしくもある。

(2016年9月15日朝刊掲載)

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