被爆証言

『記憶を受け継ぐ』 岩崎弘さん―そこかしこから火の手

大卒後、新聞記者に。文章に体験にじむ

岩崎弘(いわさき・ひろむ)さん(79)=広島市中区

 1945年8月5日夜、岡山県北東部の疎開(そかい)先から戻(もど)り、久しぶりに母の元で過ごした岩崎弘さん(79)。その翌朝、原爆が広島の街を襲(おそ)いました。自宅は爆心地から約1・3キロ。「原爆に遭(あ)うために戻ってきたようなもんだった」

 当時は8歳で、白島国民学校(現白島小、広島市中区)の3年生。45年4月から母玉恵さんの津山(つやま)市の実家に2歳下の妹光恵さんと疎開していました。夏休み中の8月5日、姫新(きしん)線と芸備線を乗(の)り継(つ)ぎ8時間かけ、祖父の岸本惣一さんと西白島(現中区)の自宅に帰りました。

 戦況(せんきょう)の悪化を受け、一家で津山に疎開しようと6日朝、引(ひ)っ越(こ)しの荷物を出したところでした。母と玄関(げんかん)に入った瞬間(しゅんかん)、ドンッという音とともに、木造平屋の家の下敷(したじ)きに。壁(かべ)と壁(かべ)に挟(はさ)まれ、母に引っ張り出してもらいました。祖父と4歳下の妹宇多子ちゃん、6歳下の弟洋治ちゃん、叔母(おば)の真理子さんも家の中にいましたが、かすり傷程度でした。

 火の手がそこかしこから上がります。たんすから足袋(たび)を出して妹弟にはかせ、6人で太田川の土手を北上。西白島地区の住民の避難(ひなん)場所に決められていた東原(ひがしはら)(現安佐南区)に歩いて逃(に)げました。東原では民家に泊(と)めてもらいました。この頃(ころ)から、おなかを壊(こわ)し、何も食べられない状態がしばらく続きました。

 翌朝、広島市内の方を見ると真っ赤。皆(みな)で津山に避難(ひなん)しようと戸坂駅(現東区)に向かいました。しかし、やってきた汽車は超満員(ちょうまんいん)。石炭車にも人が上がっていました。

 何とか乗れたのは岩崎さんと祖父の2人だけ。水筒(すいとう)を持っていなかったため、のどが渇(かわ)き、山から流れる水を窓から見ると、降りて飲みに行きたくなったのを覚えています。津山に戻ったのは夜中でした。残り4人は次の列車に乗り、その日は三次(みよし)駅(現西三次駅、三次市)に野宿しました。

 父一太さんは、当時陸軍工兵隊に所属していました。広島文理科大(現中区、爆心地から約1・4キロ)の敷地内にあった兵舎で被爆。爆風(ばくふう)で吹き飛ばされたものの、無事だったそうです。

 終戦後の46年4月、広島に戻りました。広島駅の前は闇市(やみいち)が広がり、常葉橋北側の鉄橋からは、京橋川に貨車が落ちたままになっていました。

 大学卒業後、新聞記者に。「被爆者に話を聞いても人ごとではなかった。被爆者としての物の見方が文章ににじんでいたと思う」

 今年5月に現職の米国大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏。原爆死没者の名簿(めいぼ)が収められ、原爆ドームを望む慰霊碑の前に立ったことに、意味を見いだしたいと考えています。「恨みつらみを超(こ)え、核なき世界という悲願に向かう一歩になったのではないか」

 「戦争、核兵器は最大の罪悪」と岩崎さん。中高生には、いろいろな人に話を聞いて知識を積み、自分で判断する力を養ってほしいと望みます。(二井理江)

私たち10代の感想

立ち直る思いや力 感銘

 被爆翌日に国鉄が動いていたと聞き、驚(おどろ)きました。路面電車でさえ再び動いたのは3日後だからです。鉄道が動いていたおかげで、早く遠くに避難(ひなん)でき、家族と再会できたり、放射能から逃(のが)れられたりした人は多かったはずです。人間の立ち直ろうとする思いや力はすごいな、と感じました。(中2伊藤淳仁)

「殺傷が勝ち」 恐ろしく

 「勝った負けたはスポーツだけ」。岩崎さんの言葉に広島東洋カープを思い出しました。広島の復興とともに歩み、多くの人々に感動をもたらしてきました。互(たが)いを尊重するスポーツとは違(ちが)い、戦争は人を殺傷することが「勝ち」につながります。戦争の恐(おそ)ろしさを肌(はだ)で感じたからこその言葉だと思いました。(中3鬼頭里歩)

家族再会 むごいものに

 「原爆に遭うために帰ってきたようなものだった」の言葉に、複雑な気持ちになりました。久しぶりに家族に会えて、ホッとしていた純粋(じゅんすい)な子どもの心を、原爆は一気にむごいものへと変えてしまったのです。そのようなつらい記憶(きおく)を二度と誰一人持つことがないように核兵器も戦争もあってはなりません。(高2見崎麻梨菜)

(2016年10月17日朝刊掲載)
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