被爆証言

久都内正也さん―苦難耐え 勉学に励んだ

久都内正也(くつない・まさや)さん(79)=広島市東区

高熱や脱毛… 母は「助からない」と思った

 被爆でやけどした痕(あと)のケロイドで、久都内正也さん(79)の胸や腹は「世界地図」のようにでこぼこになりました。銭湯に行くと気持ち悪そうに見られ、学校では髪(かみ)が抜けてしまったのをからかわれました。そんな中、母シズエさんが女手一つで必死に働いて育ててくれ、自らも一生懸命(いっしょうけんめい)に勉強して道を切り開いてきたのです。

 当時7歳。荒神(こうじん)町国民学校(現荒神町小、広島市南区)の2年でした。1945年8月6日朝は、学校そばの自宅(じたく)(爆心地から約2・3キロ)にいました。警戒(けいかい)警報が解除され、暑かったので防空ずきんとシャツを脱(ぬ)ぎ、半ズボン1枚になっていました。外で涼(すず)もうと道路に面した西側の玄関(げんかん)を1歩出た時です。ピカーっというものすごい光、間もなくドンという音とともに、その場にたたきつけられました。

 木造2階建ての家は倒壊(とうかい)。その下敷(したじ)きになりましたが、何とか自力ではい出しました。裏の台所にいた18歳上の長姉京子さんも、がれきの中から出てきました。しかし8歳上の次姉花子さんと母は生(い)き埋(う)めになりました。

 やけどで体中水ぶくれだらけになった久都内さん。近くに住んでいた叔母(おば)の田中秋子さんと、病院に行こうと広島駅の方へ向かいましたが、火災で進めません。愛宕(あたご)踏切(ふみきり)を渡(わた)り、東練兵場を抜(ぬ)けて国前(こくぜん)寺(現東区山根町)に行きました。途中、真夏の強い日差しが体に刺(さ)さり、暑くて痛くて耐(た)えられなかったのを覚えています。寺に着くと本堂の廊下(ろうか)にも床下(ゆかした)にもやけどやけがをした人がいっぱい。叔母と一緒に山門の一角に身を置きました。

 6日の夕方、軍の医療(いりょう)関係者から治療(ちりょう)を受けました。水ぶくれをメスで切り、薬を塗(ぬ)って包帯を巻きます。頭から足まで包帯だらけになりました。

 8日になって、自宅の近所の人が大八車で船越(ふなこし)国民学校(現船越小、安芸区)に運んでくれました。そこで、近所の人や通行人に助け出された母と次姉、そして長姉と再会しました。

 胸、腹、肩…。やけどした所からうみが出てべちゃべちゃ。高熱が出て寒けや震(ふる)えもきました。頭からもうみが出て、髪の毛が全て抜(ぬ)けました。母たちは、久都内さんはもう助からない、と思っていたそうです。

 9月中旬、倒壊を免(まぬが)れた自宅近くの叔父(おじ)丸山勇さん宅に身を寄せ、学校にも行くようになりました。「はげとる」と同級生に冷やかされたのを母に言うと、どこからか帽子(ぼうし)を調達してきてくれました。クラス写真も帽子をかぶったままで写りました。

 学校は、爆風(ばくふう)で校舎が全壊(ぜんかい)。バラックの教室は、窓が厚紙で覆(おお)われていたため室内が暗く、「後ろから黒板の字が見えなかった」。被爆3年後ごろまで校庭で授業をする青空教室で「勉強どころでなかった」。

 生まれて間もなく父辰蔵(たつぞう)さんは病死。中学校を卒業したら就職してほしい、と母に言われました。それでも勉強したい、と特待生として広陵(こうりょう)高に入学。広島大時代は、昼は働き夜間部に通いました。

 米国の原爆投下について、広島が軍都で、軍需(ぐんじゅ)施設を狙ったといわれている点を「事実と違う。一般(いっぱん)市民がこんなに多く殺された」と反論。だからこそ、オバマ米大統領が広島での演説で「市民、女性、子どもが犠牲(ぎせい)になった」と認めたのを「被爆者が米国に行って証言し続けたから」と評価します。「核兵器は持っていると事故も起こりうる。なくしてほしい。そして戦争しないことが大切」と訴(うった)えます。(二井理江)

私たち10代の感想

前向き続ける心 驚いた

 原爆が落とされて数日間、家族と離(はな)れた時も、髪(かみ)が抜(ぬ)けて友達に冷やかされた時も耐(た)えてきた久都内さん。強い心に驚(おどろ)きました。前を向き続ける勇気は、自分にはないものです。しっかりとした考えを持って行動することが、生きる上で起きる苦難を乗(の)り越(こ)えるため、大事だと教えてもらいました。(中1岩田諒馬)

戦争の被害 こんなにも

 家に風呂(ふろ)がなくて銭湯に行くと、やけどの痕(あと)のケロイドがひどくて周りの人に嫌(いや)な目で見られ、行けなくなったそうです。望んで原爆を受けたのではないのに、そのせいで苦しめられた久都内さんはかわいそうだと思いました。戦争がもたらす被害(ひがい)の大きさを、もっとみんなが学んで生きてほしいです。(中1森本柚衣)

「プライド」 思いに共感

 久都内さんは原爆傷害調査委員会(ABCC、現・放射線影響研究所)に行ったことがありません。「被爆者としてのプライドがあるから」です。母の遺体解剖(かいぼう)を依頼(いらい)された時も断ったそうです。治療(ちりょう)せず、実験台のように扱(あつか)われるなら私も耐(た)えられません。ABCCに持っていたイメージが変わりました。(高3山下未来)

(2016年11月21日朝刊掲載)
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