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社説・コラム

『論』 大政奉還150年と近代日本 多様な歴史観から再検証を

■論説副主幹 岩崎誠

 ことし10月、徳川幕府による大政奉還からちょうど150年を迎える。明治維新と近代日本への転換点である。その意味をあえて福島で考えてみた。

 いわき市から沿岸部の浜通り地方を車で北上する。そんな年の瀬の旅に同行してくれたのは広島県大崎上島町出身の作家、穂高健一さん(73)である。昔からの街道沿いに広野、楢葉、富岡、大熊、双葉、浪江の各町を経て南相馬市へ。言うまでもなく福島第1原発事故の被災地だが、復興に程遠い帰還困難区域も含めて歴史の重要な舞台であることはそう知られていない。大政奉還翌年からの戊辰戦争で激戦地の一つだったのだ。

 そこに広島藩が深く関わってくる。地元の相馬藩や仙台藩など「奥羽越列藩同盟」の軍勢に対し、新政府軍が挑む攻防戦が約3カ月にわたって展開され、最前線に率先して身を投じたのが賀茂台地などの農民出身者を軸にする「神機隊」という広島の若者たちだった。

■福島で散る命

 倒幕への動きと大政奉還。鳥羽・伏見の戦いに始まり、箱館戦争に終わる戊辰戦争。さらには新政府の体制固め。薩摩と長州が維新全体を主導したものとごく普通に語られるが、なぜ芸州は表舞台に出ることがなかったのか。そのことが日本の近代とどう関わってくるのか。

 穂高さんは広島の視点から幕末維新を問い直す一人だ。3・11を巡る現代小説を書くために浜通りの被災地を歩き、時代の変わり目に古里の若者たちが命を落としたことを知る。そして現在の浪江町で死んだ神機隊の砲隊長、高間省三を主人公とする歴史小説「二十歳の炎」を3年前に世に出している。

 幕末政局の動きを2人で振り返りつつ戦いの足跡を追った。広島藩は倒幕のお膳立てに加わりながら鳥羽・伏見の戦いには兵を出さず、結果として主導権を失う。挽回と名誉回復のために神機隊の約300人が、いわば手弁当で参戦したという。

 浜通り一帯は激戦に次ぐ激戦だったようだ。30人近い広島の戦死者と戦病死者の墓が、あちこちの寺に分散する格好で残っている。時間の許す限り立ち寄り、そっと手を合わせた。帰還困難区域の双葉町などにあるものを除いて今も地元の人たちからの花が絶えないのに驚く。

 その一つ、広野町の海沿いにある修行院は以前にも訪れたことがある。津波と原発事故からの避難を経て復興を果たした真言宗の寺院に「芸州」と刻まれた墓が四つ並ぶ。神機隊が最大の犠牲を払った広野の戦いの死者である。賀茂郡原村(現東広島市)出身と記録に残る「造賀善太郎」らの名も読み取れる。墓石がひび割れているのは震災で倒壊し、住職が石工に頼んで修復してくれた跡だ。

 同じように戊辰戦争ゆかりの墓は敵も味方もなく地元で大切に守られてきた。大震災という非常事態でも変わることなく。その心根にはあらためて頭が下がった。同時に異郷の土に眠る若者の無念を思いやる。武士になれる。藩や古里のために。さまざまな思いがあったろう。

■芸州も評価を

 最後は隊員の多くがまともに歩けなかったと伝わる神機隊。「その奮闘が歴史を動かした」と穂高さんはみる。どう転ぶかが分からなかった戦局は広野の戦いを機に新政府軍にぐっと傾く。続く浪江の戦いを経て相馬藩、さらに列藩同盟の盟主・仙台藩の降伏に至ったのだ。歴史ドラマでおなじみの会津藩の鶴ケ城落城に先立ち、戦いの大勢を決定づけたのは確かだ。

 浜通りの戦いの重要性と広島の「農民部隊」の歴史は明治以降、古里の広島でも埋もれ、忘れられてしまう。おそらくは福島に墓があることも含めて。穂高さんの見方によれば、薩長の藩閥が専横を強め、芸州出身者が冷遇されていく中で「封印」されたのだという。

 さらにいえば浜通りも維新後の福島で長く「後回し」にされた地域だと地元で聞いた。

 楢葉町の岬の高台から往時の激戦地の方向を望んだ。目前に広がるのは除染仮置き場だろうか。おととし避難指示が解除されたが、住民帰還は今なお道半ばである。現代につながる流れをつい考えてしまう。維新から77年後に軍都となった城下町広島は人類初の核兵器で壊滅する。その66年後、戦後の地域振興を原発誘致に頼ったこの地は、核エネルギーの暴走に見舞われる。

 「敵味方で戦った兵士たちは後世の二つの悲劇をどう思うだろう」と語り合った。被爆地から被災地への支援は地道に続くが、絡み合う歴史の縁をもっと生かすべきではないか、と。

 こうして手に取るように当時の歴史を追えるのは、理由がある。「芸藩志」という膨大な史料のおかげだ。学界の注目度は低いが、幕末維新の広島藩の動向を伝える。旧藩主浅野家の肝いりで明治の終わりに完成し、特に神機隊に手厚い。日々の動き、隊員の名前から死にざままで生々しく詳述し、穂高さんの小説の下敷きとなった。隊幹部だった元藩士2人が編さんに直接、携わったからだろう。

 戊辰戦争の動向に限らない。教科書には載らない幕末政局のプロセスを、この史料から読み取るのが京都市にある仏教大歴史学部の青山忠正教授である。長州をはじめとする各藩の動きを研究してきた。「芸州が新政府の中心勢力になった可能性もある」とも考えている。

 例えば徳川慶喜の大政奉還の数カ月前、歴史に名高い土佐藩の動きよりはるかに早く、広島藩が政権奉還の建白を構想していたこと。薩摩と長州と組んで「薩長芸」軍事同盟の協約を結び、幕府に圧力をかけようと京都への出兵を計画したこと…。「シナリオ通りなら3藩による政変が成功し、また違う政府ができていたかもしれない」

■続く明治礼賛

 日本の改革と列強にも負けない近代化への道筋を付けたのは薩長―。明治維新の「常識」だろう。それは昭和10年代になって国家権力が正統性を跡付けるために完成させ、流布させた物語だと青山教授は指摘する。日中戦争が始まり、戦争への道をひた走る時局にも沿っていたという。幕末からの生き残りがいた明治から大正には、もっと多様な維新の捉え方があったそうだ。

 政府は来年の明治維新150年記念事業の準備に着手した。長州が地元の安倍晋三首相がとりわけ熱心らしいが、従来通りの「明治礼賛」の歴史観を単に上書きするだけでいいのか。

 現政権が強く後押しした「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録でも議論があったように、近代日本の歩みは決して栄光だけではない。「富国強兵」の下に広島に大本営が置かれた日清戦争をはじめ、10年おきに対外戦争を繰り返して多くの国々に犠牲をもたらした。そして列島が空襲や原爆で焦土と化した帰結も忘れたくはない。

 多様な歴史観に基づき、少なからぬひずみを生んだ戦後復興も含めて再検証する姿勢が今こそ必要だろう。維新における芸州の役割の再評価が、そのきっかけの一つにならないか。

 福島の旅の話に戻る。最後に穂高さんと辻将曹の話をした。幕末からの広島藩執政である。幕府崩壊の引き金となった2度の長州攻めで「非戦」を貫き、激動の京都では他藩との外交交渉を渡り合うとともに大政奉還へ強い影響力を発揮した。戊辰戦争参戦を当初、ためらったのも彼の意向が大きいという。いったん新政府に加わるが辞し、中央政界からは姿を消す。

 むろん歴史に「もし」は禁物だろう。だが穂高さんは「辻のような非戦論者が明治日本のイニシアチブを取っていたら、戦争を繰り返す軍事国家になっていたかどうか」と問い掛ける。富国強兵ではなく「富国富民」の選択肢もあったはずであり、あるいは原爆投下も避けられたのではないか、と。大胆だが重要な視点ではなかろうか。

 ことし京都市の呼び掛けで、「大政奉還150周年記念プロジェクト」が幕開けする。青山教授が知恵袋である。倒幕、佐幕を超えた全国の21自治体が集い、歴史の検証にも取り組む。萩市や鹿児島市に会津若松市、さらに幕末の老中阿部正弘ゆかりの福山市などの名はあるが、広島市は加わっていない。もったいない話である。

(2017年1月3日朝刊掲載)

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