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[詩のゆくえ] アーサー・ビナードさんに聞く 峠三吉 「原爆詩集」の真価とは

 言葉、とりわけそれを凝縮した詩の表現には、どんな力があるだろう。ことしは、「原爆詩集」やサークル誌「われらの詩(うた)」で知られる詩人峠三吉(1917~53年)の生誕100年。峠の詩作の再評価を糸口として、社会に向き合い、人々の心に響く詩や歌の表現を幅広く見つめ、鼓動に耳を澄ませたい。言葉が荒れ、軽んじられているようにも見える今、「うた」の可能性を追ってみたい。(道面雅量、森田裕美)

 詩人のアーサー・ビナードさんは、新たに岩波文庫に収められた峠の「原爆詩集」に解説を寄せている。「日本語で書かれた『戦後文学』の最優秀詩集にノミネートしたい」―。そんな最大級の評価をつづった理由を語ってもらった。

 平和記念公園(広島市中区)の中に峠三吉詩碑がある。

 ちちをかえせ ははをかえせ
 としよりをかえせ
 こどもをかえせ

 こう始まる一編は、原爆詩として最も有名で、英訳が付されて海外にも知られている。でも、冷静になってみると表記が間違っている。タイトルがない。「原爆詩集」を手に取れば分かるけれど、タイトルは、「序」。なぜ省いたのか。平仮名表記に徹した詩の分かりやすさが損なわれる、などと考えたのだろう。

 でも、これはあくまで「序」だ。峠は、できるだけ多くの人を招き入れるために、詩集の冒頭にこれを置いた。原爆を伝える上でのほんの入り口、序の口に過ぎないから、タイトルは「序」。なのに、「序」だけで分かったつもりになって、この後に続く詩がどれほどすごいかを知らない人が多すぎる。表現力の高さ、言語的実験としての価値、核時代を見据えた先見性…。知らずにいるのは、あまりにもったいない。

 「序」に続く2編目の「八月六日」は、すさまじい映像喚起力であの日の光景を描き出す。そして3編目の「死」は、こんなふうに始まる。

 !
 泣き叫ぶ耳の奥の声
 音もなく膨れあがり
 とびかかってきた
 烈(はげ)しい異状さの空間
 たち罩(こ)めた塵煙(じんえん)の
 きなくさいはためきの間を
 走り狂う影
 <あ
 にげら
 れる>

 しょっぱなからすごい。

 「!」

 原爆さく裂の瞬間を「ピカ」と称したのは被爆者の実感だが、それでも、後から言語化した感はある。「!」は、言語化するいと間もなく、熱線と放射線に射抜かれた感じが伝わる。そして、生き延びようと逃げる体験に読者を巻きこみながら、文は切断される。

 <あ
 にげら
 れる>
 日本語の常識では決して改行しない箇所で、なぜ切ったのか。峠はここで、「日本語をヒバクさせた」のだと思う。放射線でDNAが切断されたように、言葉が切れちゃっている。ヒバクさせた言葉で、読者を実体験の近くまで導く。

 詩はこう終わる。

 どうしてわたしは
 道ばたのこんなところで
 おまえからもはなれ
 し、死な
 ねば
 な
 らぬ
 か

 巻きこまれた読者一人一人は、ついに逃げ切れず、死に直面する。心地よい調べではないけれど、20世紀半ばからの核時代になくてはならない詩の表現であり、内部被曝(ひばく)をもたらす放射能汚染が途切れない21世紀まで見通した言語的実験だ。

 「原爆詩集」にあふれる峠の先見の明は、「炎の季節」と題した詩でも鮮やか。1954年の第五福竜丸事件で注目を浴びる太平洋のビキニ環礁を、その3年前の刊行時点で登場させている。当時からビキニで核実験は繰り返されてはいたが、詩人としてきちんと反応し、盛り込んでいる。

 引用すると、

 ビキニ環礁(かんしょう)が噴きあげた
 何万トンかの海水を映したのは
 豚・
 羊・
 猿・
 実験動物たちの
 きょとんとした目・目・目だ

 ここにあるのは、「僕らはみんな豚であり、羊、猿なんだよ」というメッセージと思う。原爆が戦争を終わらせたなんていう物語を一蹴し、広島や長崎の人々が「実験」に供されたという本質を見抜いている。そして、半減期が何万年、何億年という、スケールが桁外れの放射性物質を前に「きょとん」とするしかない私たち生き物にとって、黙っていることは自殺行為だと教えてくれる。

 「原爆詩集」は古くなっていない。峠は、人類が初めて核にさらされた時代に、ものすごいリスクを負ってこの「うた」を生み出した。僕たちも、時代とテーマが要求する、新しい「うた」を創り出さないといけない。峠がそばにいると思うと、できるかもしれない。

 1967年、米ミシガン州生まれ。90年に来日して日本語で創作を始め、詩集「釣り上げては」で中原中也賞、「ここが家だ-ベン・シャーンの第五福竜丸」で日本絵本賞。2011年の東日本大震災後は東京のほか広島市中区にも拠点を置き、被爆者の遺品に取材した写真絵本「さがしています」を刊行した。

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言論統制下に初版発行 新たに文庫化 歳月超え共感呼ぶ

 「原爆詩集」は、峠三吉による自選詩集だ。

 「序」を含む20編の詩からなるガリ版刷りの初版本が刊行されたのは、1951年9月のこと。炎の中をさまよう人のシルエットが描かれた表紙絵は、峠らが創刊した「われらの詩」で共に活動した四国五郎(1924~2014年)が手掛けた。

 敗戦後、進駐した米軍を中心とする連合国軍の占領が続いていた。50年6月には朝鮮戦争が始まり(53年7月に休戦)、当時のトルーマン米大統領は、原爆使用もあり得ると示唆。連合国軍総司令部(GHQ)は言論・表現を統制し、広島でも50年8月6日の「平和祭」が中止に追い込まれた。

 活動が合法化されたはずの共産党員たちを職場から追放するレッドパージも吹き荒れた。「原爆詩集」の刊行は弾圧を恐れた出版社に断られ、私家版で500部発行した。

 そんな時代の空気は「あとがき」からも伝わる。「私が唯(ただ)このように平和えのねがいを詩にうたつているというだけの事でいかに人間としての基本的な自由をまで奪われねばならぬ如く時代が逆行しつつあるか(略)私はこのような文学活動によつて生活の機会を殆(ほと)んど無くされている事は勿論(もちろん)、有形無形の圧迫を絶えず加えられており、それはますます増大しつつある」―。

 「原爆詩集」は占領が解けた52年、初版の20編に5編を加え、青木書店から文庫として発行された。昨年7月には、作家の大江健三郎さんとビナードさんの解説を加え、岩波書店からも文庫化された。

 峠の残した言葉は、歳月を経てなお、共感を呼び続けている。

峠三吉
 大阪に生まれ、広島で育った。幼い頃から病弱で、死に向き合いながら詩作に励んだ。28歳の時、爆心地から約3キロの自宅で被爆。49年11月にサークル誌「われらの詩」を創刊し、戦後広島の青年文化運動をリードした。53年、肺の手術中に死去。36歳だった。

(2017年1月6日朝刊掲載)
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