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連載・特集

[Peaceあすへのバトン] 国連本部軍縮部職員・荊尾遥さん 核廃絶へ原点忘れない

 米ニューヨークの国連本部で約10年ぶりに働き始めました。以前の知り合いとばったり会い、うれしいことも。さまざまな国の人と働き、考えを吸収するつもりです。ただ、ヒロシマの視点を忘れないことが、自分の存在意義だと思っています。核軍縮に時間はかかりますが、一歩ずつでも前に進めないといけません。

 平和に関心を持ち始めたのは、中学3年の時。民族同士が独立を目指し、内戦を繰り返した旧ユーゴスラビアの若者と交流したのがきっかけです。広島市を訪れた10代と、原爆資料館などを一緒に見学しました。

 彼ら一人一人が平和を目指し考えていました。対立を映すテレビなどと違い、彼らを「怖い」「悪い」と思えませんでした。親しくなって気付いたのは、メディアの伝えることが全てじゃないということ。個人的なつながりを持ち、もっとヒロシマを勉強して伝えようと決めました。

 高校3年の時、核兵器を持つインド、パキスタンの10代と知り合えたのも弾みになりました。被爆地広島を見て、核廃絶について「現実は難しいかもしれないが、私たちが変える」とインタビューに答えていた高校生をよく覚えています。

 国際関係を学ぼうと、津田塾大(東京)に進学。米中枢同時テロ、イラク戦争が起きる中、平和には対話が必要だと感じ、さまざまな機会を捉えて、各国の若者と意見を交わしました。

 大学4年の時に、「広島世界平和ミッション」(広島国際文化財団主催)に参加しました。核兵器の廃棄に踏み切った南アフリカ共和国と、毒ガス弾攻撃を受けたイランに被爆者らと向かいました。原爆の惨禍を伝えるとともに現状を学んで帰りました。

 2006年の3カ月間、国連本部の軍縮局(現軍縮部)でインターンをしたのは、修士論文のテーマを探すのが目的でした。しかし実感したのは現実の厳しさ。銃など小型武器を非合法に取引することを防ぐ話し合いでさえも、合意に至りませんでした。軍縮の難しさを知り、平和構築を学んだ上で、また国連に戻ろうと考えました。

 その後の約10年間、国連アジア太平洋平和軍縮センター(ネパール)勤務など海外や広島で仕事をする中で経験を積み、自分の専門性を見つめました。国際会議で条約の文言について話し合う時も、広島で一般市民が犠牲になった事実を忘れないようにしています。

 2度目の国連本部では、核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会や、「核兵器禁止条約」に関する会議に関わります。ヒロシマが経験した核兵器の非人道性を、国際社会に理解してもらうため、広島との橋渡し役を最大限果たしていくつもりです。(山本祐司)

かたらお・はるか
 広島市安佐北区出身、広島女学院高卒。津田塾大大学院時代に国連本部軍縮局でインターン。国連アジア太平洋平和軍縮センター政務官などを務め、2015~16年広島県平和推進プロジェクト・チーム。17年1月から現職。米ニューヨーク在住。

(2017年1月16日朝刊掲載)

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