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連載・特集

[詩のゆくえ] 第1部 峠三吉の遺産 <中> 原爆の図丸木美術館学芸員 岡村幸宣さん

絵と一体の辻詩 言論統制下で抵抗の表現活動

 原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)で昨夏開催した「四國五郎展」で、多くの人が見入る一角があった。「辻詩(つじし)」と呼ばれる作品が並んだ壁面だ。

 「高い関心が示された一方で、芸術っぽくないという率直な反応もあった」と、岡村さんは振り返る。峠三吉(1917~53年)が49年に創刊したサークル誌「われらの詩(うた)」で共に活動し、峠の「原爆詩集」初版(51年)の表紙絵も手掛けた画家四国五郎(1924~2014年)の回顧展。テーマの一つに据えたのが、2人の交流から生まれた「辻詩」だ。

 辻詩は、社会への批判や反戦のメッセージを込め、詩と絵を一体化させて伝える作品。街辻の壁や電柱に張り出すため、そう呼ばれた。50年に朝鮮戦争が始まり、占領軍による言論統制が厳しさを増す中、当時の文化運動が実践した表現活動だった。

 主に峠が詩を書き、四国が絵を描いた。警察が来ると剝がして逃げることもあったという。多数の画びょう跡が当時の空気を伝える現存の8点が、同展に並んだ。

 「絵と言葉を明確に分けることが芸術だとされてきた近代以降の枠組みにとらわれず、表現の本質を見詰め直したかった」。岡村さんは展示の狙いを語る。

 企画の契機となったのは、広島市内で2015年、市民有志が開いた四国の追悼・回顧展を鑑賞したことという。作家の個性や芸術の純粋性を打ち出すより、無名であっても社会の役に立とう―。50年代の文化運動に見られるそうした姿勢を貫いた四国の画業に関心が向いた。

 特に衝撃を受けたのが辻詩だった。「なぜに」(50年)は、占領軍兵士相手の女性をモチーフに戦後の悲哀をうたう峠の詩と、物憂げな女性像に時世を伝える新聞の切り抜きなどをコラージュした作品。「記憶に刻まれる視覚的な力の強さを感じた」。書かれている言葉が、ポスターのようなスローガンではなく、あくまで「詩」である点にもひかれた。「より叙情性をもって想像力を喚起させる力もある」

 絵と言葉による表現、共同制作、戦争への抵抗、ゲリラ的な発表…。芸術と政治が今よりも密接だった時代の必然だろうか。岡村さんは、同館が常設展示する丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」とも少なからぬ共通点を感じている。

 「原爆の図」は、「反戦平和の象徴」として政治的側面からは語り継がれながら、長く芸術としての十分な評価がなされてこなかった。「芸術か、政治か、といった枠組みだけで表現を捉え、政治的だと批判するのは、芸術は政治的であってはならないというものの見方に縛られているから」。辻詩に触れ、その思いは強くなった。

 50年10月、丸木夫妻は、「原爆の図」を携え全国巡回を始めている。出発点となった広島展を支えたのは、峠や四国ら「われらの詩の会」メンバー。会場で峠は、後に「原爆詩集」に収める「墓標」を朗読し、発表した。

 その後も交流は続き、峠は52年、丸木夫妻の紹介で「原爆詩集」の文庫版を青木書店から出している。「希(ねが)い―『原爆の図』によせて―」と題した詩を加えて。

 岡村さんは言う。「みんなが別の方向を向いて創り出す『芸術』と、みんなが同じ方向を向くことで成り立つ『運動』は本質的に異質。でもその二つを力技で接続させたのが、峠さんや四国さん、丸木夫妻。不可能を可能にしようとする表現、それ自体が芸術と言えるのではないでしょうか」

 36歳で手術中に亡くなった峠が、もうしばらく長生きをしていたら、辻詩と「原爆の図」との合同巡回展もあり得たかもしれない―。そんな気もしている。(森田裕美)

おかむら・ゆきのり
 1974年東京都生まれ。東京造形大造形学部卒業後、同研究生課程修了。2001年から現職。著書に「非核芸術案内」(岩波書店)、「《原爆の図》全国巡回」(新宿書房)。埼玉県川越市在住。

(2017年1月25日朝刊掲載)

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