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連載・特集

核なき世界への鍵 マーシャルの訴え <4> 被害の記憶継承

若者に当事者意識促す

 「将来は米国に住みたいと思っている人はいるかな」。日本の幼稚園から中学2年までに当たる約190人が通うマーシャル諸島・エニウェトク島唯一の学校で、小学5年の担任ジェブラン・ネッド教諭(59)が問い掛けると、教室にいた児童18人のうち13人が手を挙げた。レベッカ・キジェンメジュさん(11)は「大学に行ってパイロットになりたい」。ほかの子も口々に渡米の夢を語った。

 米国と1983年に結んだ自由連合協定により、マーシャル諸島の国民はビザなしで自由に米国に移住できる。大学進学に加え、仕事を求めて渡米する若者は多く、エニウェトク島も例外ではない。次世代に、核実験の被害の記憶がきちんと引き継がれないのではないかと危惧されている。

 島の学校では、主に高学年を対象に、エニウェトク環礁での核実験やそれに伴う環境汚染、強制移住先のウジェラン環礁での苦難などを教える。ネッド教諭は「なぜ自分たちが缶詰を食べて暮らしているのか、理由を知るべきだ」と力説。健康被害が現れた場合の備えにもなると信じる。ただ、ウジェラン環礁から帰島した80年以降に生まれた世代は総じて、核実験の歴史について「学校で少し習ったけど」と言葉少なだ。

 ビキニ環礁で54年にあった水爆実験「ブラボー」による放射性降下物「死の灰」で島民86人(胎児4人を含む)が被曝(ひばく)したロンゲラップ環礁を巡っても、関心の度合いは世代間で異なる。

 今は首都マジュロに住むレメヨ・アボンさん(76)は、朝食の準備中に爆発を目撃。「死の灰」を浴び、下痢や脱毛などの急性症状に襲われた。米艦船での緊急避難、57年の米国の「安全宣言」で帰島した後に現れたがんなどの健康被害、そして85年の再離島―。自身も同年にがんで甲状腺を切除し、被曝の記憶は体にも刻まれている。

 今も米国への不信や被曝への恐怖は根強い。島に帰りたいと願うが、「私が戻れば子や孫も一緒に来て被曝してしまうから」と自重する。望郷の思いをかみ殺す出身者がいる一方、子や孫の世代には「危険かどうかは自治体が判断してくれる」との声も。若い世代は、被害者としての当事者意識が薄れがちだ。

 マジュロの弁護士ロザニア・ベネットさん(46)は「私たち以下の世代は核実験の事実は知っていても、実際にそこで何が起きたかは知らない。その世代間の橋渡しをしなければ」と危機感を持つ。2015年にNGO「リーチ・ミー」を設立。10~40歳代のメンバー約50人が、核実験の被害を認められていない環礁を含め、国内全域の被曝者への聞き取りを進める。近く、次世代向けのワークショップ開催や学校教材作りにも取り組む。

 多くの被曝者が見捨てられたと感じ、沈黙してきたといい、聞き取りは必ずしも容易ではない。活動資金の確保など課題は山積する。それでもベネットさんは「記憶を伝えて核被害に対する国内の関心を高め、米国に責任を認めさせたい。それが核兵器をもう使わせないという機運にもつながっていくはずだ」。もう二度と―。それは、広島、長崎の被爆者の訴えに重なっている。

(2017年2月17日朝刊掲載)

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