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社説・コラム

『言』 津波の記憶 「被災物」の語り 胸に刻んで

◆リアス・アーク美術館学芸員 山内宏泰さん

 東日本大震災から6年を迎える。人々と町をのみ込んだ津波の記録と伝承に取り組む美術館が宮城県気仙沼市にある。同市と南三陸町が運営するリアス・アーク美術館。常設展示室では変わり果てた町を撮った写真や収集したモノが見る者に訴えかける。何が起きたかちゃんと知ってほしい、と。家を流された被災者でもある学芸員、山内宏泰さん(45)に思いを聞いた。(論説委員・田原直樹、写真も)

  ―立ち尽くしてしまいそうな訴求力のある展示ですね。
 震災の翌日から地域で撮った写真や集めた物などを核に資料600点を並べました。一般に「がれき」と呼ぶけど、住民や地域の記憶を宿す大事なものであり、決してごみではない。私たちは「被災物」と呼びます。

  ―キャプションは文字量が多く、主観的ですね。
 じっくり読み、感じてもらうよう、多様な記し方を工夫しました。津波被害を伝える、この館独自の「表現」です。来館者は多くが約2時間半かけて巡ります。4時間という人も。

  ―「真っ白いごはんが出てきたのね…夜の分、残してたの…涙出たよ」と、泥の付いた炊飯器を語る高齢者の言葉が胸に迫ります。
 被災物の解説は、私が創った物語です。フィクションと批判されるかもしれませんが、この地に暮らし、熟知した者だからこそ思い浮かぶ情景です。ここにどんな暮らしがあったかを来館者が想像し、「記憶」を失うつらさを感じてほしい。解説はそのイメージを再生するスイッチなのです。

  ―被災者の失われた生活、思いが語られていますね。
 「記憶の風化」と言われますが、被災者にとって震災は終わっていません。記憶は今も蓄積されているのに「風化」すると言うのはおかしい。

 「忘れる」という言葉も違和感があります。そもそも震災や被災者の状況が十分知られているとは思えないから。メディアが伝える情報だけで知ったつもりの人が多いのではないでしょうか。何が起きたかを現地でまず知り、考え、覚えてもらいたい。知りもしないで「忘れる」と言ってほしくありませんね。

  ―そのメッセージを展示に込めているのですね。
 この地では津波が繰り返し発生し、必ずまた起きる。震災前に明治の津波の企画展をして警鐘を鳴らしたが、関心は低かった。震災が発生するや皆、「未曽有」「想定外だ」と言いだした。でも想定できたはずだし、未曽有でもない。今度こそ地域の災害史を伝えねばという使命感で震災2年後、常設展を始めました。反省を地域再生に生かさないと意味がないですから。

  ―明治、昭和の津波資料も収め、博物館的な施設ですね。
 こういう施設を今から造ると「復興事業」の枠にはめられ、人々はいかに支援し、立ち上がり、復興したのか…などドラマのようなシナリオになったでしょうね。震災とは何か、という本質は薄められてしまって。

  ―6年たち、感じることは。
 来館者が震災を「知らない」人たちに移ってきましたね。そういう人の立ち居振る舞いは被災者を傷つけかねません。例えば修学旅行団体が滞在わずか20分で解説もしてくれという。学ぶ気があるのか疑います。生徒は携帯をいじり、5分もしないうちに展示室を出る。その姿勢や感覚には打ちのめされます。

  ―被災地への訪問が形骸化し始めたのでしょうか。
 震災の実情を知らないのは罪ではありません。でもせめて被災者を気遣う心を持っていてほしい。現代社会の病理を見る思いがしてなりません。

  ―復興事業をどう見ますか。
 防潮堤を造り、相変わらず自然と闘うという方向性には脱力します。科学力の過信や開発が災害を大きくしたのに反省がない。自然環境との共存を考え、減災を探るべきなのに。

  ―何か「祭り」を提言しているそうですね。
 泥を体に塗った若者が海辺から町へ来て人々を追い回すのです。住民は助け合って高台に逃げ、備蓄食料を食べる。津波の襲来と避難を模した祭りです。避難訓練より効果的で根付きますよ。そうして津波と共生する「文化」をつくるのです。

やまうち・ひろやす
 宮城県石巻市生まれ。宮城教育大卒。94年に同大大学院を中退し、リアス・アーク美術館学芸員に。震災直後から館に寝泊まりして、被害の記録に着手。常設展「東日本大震災の記録と津波の災害史」を担当した。山内ヒロヤス名義で小説も書き、明治三陸大津波が題材の「砂の城」(近代文芸社)などの著書がある。美術家としても活動し、宮城県芸術選奨新人賞を受賞している。

(2017年3月8日朝刊掲載)

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