×

連載・特集

[詩のゆくえ] 第2部 3・11を刻む <中> 歌人・短歌評論家 川野里子さん

「見えない災禍」直感書き留め本質言い当てる

 1969年に刊行された石牟礼道子さんの「苦海浄土」を、最近読み直したという。水俣病患者と家族の苦しみを描いた戦後文学の傑作。息子と同年齢の水俣病の少年と出会った石牟礼さんは、「ひきゆがむような母性を、私は自分のうちに感じていた」とつづる。

 「自分の中の人間性を再発見しているこの言葉が、東日本大震災後の今、ものすごくまぶしくて」。川野さんは実感を込める。

 福島第1原発の事故後、「見えない災禍」に多くの人が戸惑った。川野さんは、「見えない」のは放射性物質による汚染だけではないと指摘する。「避難するしないの違いで引き裂かれた住民の心や、責任の所在だってそう。私たちは見えなくされ、言葉を奪われ、沈黙に支配されている。人間の奥底から湧き上がる、愛や尊厳や信頼といったものの出口が閉ざされている」

 短歌の世界では当初、たくさんの「母」が表れたという。例えば俵万智さんはこう。当時の内閣官房長官らが会見で繰り返した「直ちには人体に影響ない」にちなむ一首だ。

まだ恋も知らぬ我が子と思うとき「直ちには」とは意味なき言葉(歌集「オレがマリオ」から)

 「国はもちろん、誰も信頼できないような原発事故後の社会の中で、人は何を守るべきなのか。直感による母親たちの言葉は、石牟礼さんに通じるものがあった」と振り返る。

 川野さんが問い掛けるのは、詠み手の「当事者性」ともいえる。「どんな立場で被災したか、あるいはしなかったかによって、見え方は異なる。単なる記録としての役割から踏み出すことができなければ、表現が体験者の特権になり、体験していない者は傍観者でしかなくなる」

 表現への動機、人間としての衝動が立場の違いを超えていくような、「うた」の在り方とは―。可能性を感じる新鋭の表現として挙げる一例が、吉川宏志さんの歌集「鳥の見しもの」だ。非体験者として現実に身を投じ、リポートのような形式の作品を生んでいる。

明日はまた仕事があるので帰ります 電気に満ちた街に帰ります

 「矛盾の質感を引っ張り出している」と評価する一首だ。

 自らを主人公に実体験をうたう短歌の性質である、「私」の解体に挑む歌人もいる。斉藤斎藤さんは、他人の言葉や客観情報を羅列するような作品を発表。歌文集「人の道、死ぬと町」には、被災者の証言を集めたこんな作品が並ぶ。

玄関です ここに鍵があって開けるんです 階段があって8畳、5畳

三階を流されてゆく足首をつかみ損ねてわたしを責める

 「ばらばらな『私』の集積が、右往左往する生々しい『私』を浮かび上がらせ、浅いヒューマニズムを突き破るパワーがある」と川野さん。

 福島県出身だが体験者として語ることを拒み、詩歌の美を追究する若手の井上法子さんも挙げる。昨年刊行の歌集「永遠でないほうの火」から。

煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火

 かえって原発事故を想起させる一首だろう。

 最後に、川野さん自身の歌を引く。大震災から間もない2011年5月の作。

あやまちはくりかへしませんから あまやちは、いえ、あまちあはくりかへしませんから

 「原発事故と70年余り前の広島が重なり、どうにもならない気持ちだった」。「過ち」という言葉さえ、何度も言い間違えてしまうようなやるかたなさを言葉にしたという。

 「沈黙を突き破るには、ありとあらゆる方法が必要。直感を書き留め、本質を言い当てる短歌は、その性質を最大限生かせるのではないか」。社会を覆う沈黙に、人間性で立ち向かう方策を探り続ける。(森田裕美)

かわの・さとこ
 1959年大分県生まれ。千葉大大学院修了。歌誌「かりん」編集委員。複数のメディアで歌壇選者も務める。共立女子短大、立正大非常勤講師。歌集に「王者の道」(若山牧水賞)など、評論に「七十年の孤独 戦後短歌からの問い」など。千葉市在住。

(2017年3月9日朝刊掲載)

年別アーカイブ