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連載・特集

放影研70年 <下> 将来像

移転へ 研究体制が課題

 広島市街地を一望できる比治山公園(南区)に、放射線影響研究所(放影研)のかまぼこ形の建物が連なる。築67年。雨漏りがひどく補修を繰り返す。2001年の芸予地震では数十カ所のひび割れができた。老朽化は明らかだが、財政上の理由で米国側が納得しないため、移転議論は凍結状態が続いてきた。

入居案を公表

 放影研を市総合健康センター(中区、鉄筋6階建て)の2~4階フロアに入居させる―。市がこんな青写真を公表したのは昨年11月。その半年ほど前、放影研を所管する厚生労働省から「日米両政府の負担で新設するのは困難」との考えを伝えられ、行き着いた。

 現在はセンターを共有する市医師会が、検査施設を構えている。建設を検討中の新医師会館へ検査施設を移してもらうのが前提となるが、松井一実市長は「市として重要な課題の方向性が見えてきている」と息巻く。市の協力要請に市医師会も検討を始め、具体性を帯び始めた。

 市が移転の調整に腐心する背景には、比治山公園を「平和の丘」として再整備する事業を進めたい思惑がある。さらに「古くから親しまれてきた比治山への建設が占領下で強行された」と、前身である米国原爆傷害調査委員会(ABCC)の発足経緯に対する市民感情も挙げる。

 市の入居案では、延べ床面積が現在の半分から4分の3の5千~7千平方メートル程度になる。一番の当事者である放影研は現時点で態度を保留している。5~10年先を見据えた研究の戦略を作成中で、6月にも必要な設備や規模を一定に固め、議論に臨む考えだ。

62万本の試料

 ただ、丹羽太貫理事長は「生存する被爆者や被爆2世がいなくなるであろう約60年先でも、研究はちゃんと続ける」と言明する。放射線の人体への影響のメカニズム解明など研究の発展にも意欲をみせ、体制の大幅な縮小には否定的だ。

 また、広島、長崎の両研究所で血液と尿の生物試料約62万本を保管。これらを一括管理する「研究資源センター」の設置を進めており、全長約13メートルの大型冷凍庫を15年に導入。大量の電気を消費する。マウスによる実験環境も欠かせない。こうした施設の特殊性も移転の課題になる。

 丹羽理事長は「地元に誇ってもらえる研究所でありたい」と言う。将来像を行政や被爆者、市民たちと共有できるか。70年目を迎え重要な岐路に立つ。(長久豪佑)

放影研の移転を巡る動き
 放影研の前身の原爆傷害調査委員会(ABCC)が比治山公園(広島市南区)に移ったのは、設立3年後の1950年。その後、地元から移転を望む声が高まり、86年に市が中区千田町の広島大工学部跡地を移転先として先行取得。放影研も93年に新施設の建設計画をいったんまとめた。しかし、米国側が財政難を理由に難色を示し、議論は凍結状態となった。

(2017年3月10日朝刊掲載)

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