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連載・特集

緑地帯 朴さんの手紙 久保田桂子 <8>

 2016年10月。キンモクセイの花が終わる頃、東京・新宿の映画館で「海へ 朴(パク)さんの手紙」が上映された。「記憶の中のシベリア」と題し、私の祖父の戦争体験についての短編「祖父の日記帳と私のビデオノート」と2本立ての上映だった。

 朴道興(ドフン)さんにとってのシベリアの記憶は、山根秋夫さんについての記憶でもある。作品の中で、朴さんも山根さんの妻みすえさんも、長い間ずっと心の中にしまっていた大切な人の思い出を語ってくれた。ふたりは、それを作品にすることを許してくれたが、私はふたりの語りの先に見える戦争や思想に対し、どう向き合えばいいのか悩み通しだった。編集を終えた時には、朴さんとの出会いから10年がたっていた。

 朴さんの山根さん宛ての手紙のうち1通を私は編集のために預かっていたが、編集が長引き、数年間も手元に置いたままだった。それをやっと広島へ返したのが、作品が完成し、上映の準備に追われた16年8月。その頃、朴さんが92歳で亡くなった。

 先月、山根さんの故郷である広島で上映が実現した。地元の方と一緒に、山根さんのご家族がたくさん来てくれた。みすえさんも見てくださった。

 広島上映から家へ帰る新幹線の中で、劇場で出会った山根さんの家族のこと、山根さんに似たお孫さんや、ひ孫のかわいい男の子について、猛烈に朴さんに手紙を書きたいという衝動に駆られた。そしてすぐ、もう送る宛てもないことに気づき、座席で呆然(ぼうぜん)とした。(映像作家=長野県)=おわり

(2017年3月25日朝刊掲載)

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