被爆証言

加藤文子さん―意識戻ると 人の下敷き

加藤文子(かとう・ふみこ)さん(87)=広島市安佐南区

「生かされた…」うずき抱え体験記編さん

 「私は生かされとるんです」。そう口にする加藤(旧姓木本)文子さん(87)は、別の学徒動員先で亡くなった同級生たちの存在が忘れられません。自らも祇園高等女学校4年だった15歳の時、爆心地から約1・5キロで被爆。戦後、生き延びた同級生の被爆体験記をまとめたのも、証言活動を続けるのも、あの日を、年表の中にうずめたくないからでした。

 原爆が落とされた日は青空の広がる暑い日でした。自宅のある祇園町(現広島市安佐南区)から可部線で横川駅へ。降りて歩くこと約15分、基町(現中区)にあった広島逓信(ていしん)局に到着(とうちゃく)。1カ月前から動員され、庶務(しょむ)を担当していました。4階の職場で、うちわをあおぎ、涼(すず)んでいた時、原爆が投下されました。

 ガラス窓が真っ赤に染まり、パッーと飛び散りました。自分も吹(ふ)き飛ばされ、気を失いました。15分ほどたってからでしょうか、意識を取り戻(もど)すと、同じ階の約30人が積み重なった山の下敷きになっていました。ガラス片の刺(さ)さった人の血が滴(したた)り、自分の白いブラウスは深紅(しんく)に。何とか抜けだし建物の外に出ると不安に駆(か)られました。

 「帰りたい」。泣きながら、同級生と火の手の迫(せま)る方向とは逆の風上(北)へ向かいました。帰宅すると、血だらけの上着を見た母冨士野さんに驚(おどろ)かれましたが、幸運にも自分にけがはありません。無事を喜んでくれました。

 家の前はやけどして皮膚(ひふ)の垂れた腕を前に突(つ)きだし逃(に)げ行く人が、ひっきりなしに通ります。物のように人を荷台に載(の)せたトラックが走る光景が続きました。

 同級生約80人を失いました。爆心地のすぐそば、細工町(現中区)にあった広島郵便局に学徒動員された同級生もいます。四つあったクラスは戦後、半分になりました。卒業後、弔(とむら)うための法要を営みましたが、訪れた遺族の言葉が胸に刺さりました。「なんであなたらは生きてるの」

 誰(だれ)も学徒動員先を選ぶことはできませんでした。しかし、「自分が死ねば良かったんだ」と頭をかすめました。祇園高女の校長だった父進さんも、つらさをこらえたようです。なぜ校長の娘が生きてるのかと保護者から責められたことを、1982年に亡くなる直前に明かしてくれました。うずく思いを抱え、被爆40年に合わせて仲間たちと母校の後身、大下学園祇園女子高(安佐南区、現AICJ中高)に慰霊碑を建立。「生かされて」と題する被爆体験記も出版しました。

 被爆者の夫良夫さんと結婚後、放射能の影響(えいきょう)を恐(おそ)れるようになりました。59年に出産した次男が生後間もなく亡くなり、長女も片方の目が見えないことが分かったからでした。「自分は元気でも、もし子どもに放射能が災いしたとしたら…」。

 これまで約30回、被爆体験を話しました。「戦争は傲慢(ごうまん)になった人間の仕業(しわざ)。核兵器を排除(はいじょ)できない限り、本当の平和はやってこんです」。生きられたことへの感謝は、悲しい記憶に向き合う自分の原動力になっています。10代に証言した今回、次世代に託(たく)す思いを、趣味の短歌に詠(よ)んでくれました。

 「若きらに 老いてわれなお 証言す 原爆死せし 友やすかれと」(山本祐司)

私たち10代の感想

被爆者の願い伝えたい

 核兵器廃絶を願うバトンは、いま自分につながれました。加藤さんは、原爆の悲惨(ひさん)さを「歴史」の一ページに終わらせないためには、今の人が知識を増やし、意見を交わす必要があると指摘しました。被爆者の諦(あきら)めない願いがあるからこそ、自分も平和の大切さを訴(うった)えられます。この願いを多くの人に伝えます。(中2植田耕太)

分かれた生死 心の痛み

 原爆投下で同級生を失った加藤さん。もし爆心地に近い職場に学徒動員されていたら死んでいたかもしれない、と話します。偶然(ぐうぜん)とはいえ、配属された場所で生徒たちの生死は分かれました。加藤さんは心をすごく痛めたと思います。それでも体験を話してくれたことに記憶を伝えたいという強い意志を感じました。(高2岡田実優)

生き残った人々も混乱

 加藤さんは被爆後、自分が元気なのに、子どもに放射能の影響(えいきょう)が出たのではと悩(なや)み、つらかったと涙(なみだ)ながらに打ち明けました。この体験は原爆の恐ろしさを物語っています。原爆は投下された時だけ威力(いりょく)を持つのではなく、生き残った人たちのその後の人生までも混乱させてしまうのだとあらためて感じました。(高3見崎麻梨菜)

(2017年4月3日朝刊掲載)
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