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被爆建物 最後の8・6 駅前再開発で取り壊しへ

 広島市南区のJR広島駅南口の市街地再開発エリアにある被爆建物の旧住友銀行東松原支店が、来春までに取り壊される。大正期の1921年に建てられ、爆心地から2キロ以内に残る数少ない建造物だ。最後の8月6日を控え、近隣の住民や建物の所有者は感謝や慰霊の思いを深める。(藤村潤平)

 「夜に家の窓を開けると、そろばんの音がパチパチと聞こえてきた」。近くに住む秋信邦之さん(90)は、活気あふれる戦前の様子を振り返る。アーチ状の装飾が特徴的な「1歳年上」のれんが造りの2階建てをまぶしそうに見上げた。

 爆心地から1・9キロ。湾曲したままの西側の鉄扉が爆風の威力を物語る。東区の村川博敏さん(70)は被爆当時、旧支店に隣接する自宅にいた。記憶はないが、母から「倒壊した家がれんがの壁に寄りかかり、ぺしゃんこにならずに済んだ」と聞かされて育った。

 旧支店は被爆に耐えた後、戦後の闇市のにぎわいに囲まれた。59年の新築移転後は衣料卸店の倉庫などに使われ、70年から2009年まで呉服卸店に。市国際平和推進部は「被爆だけでなく広島の復興期を語る上で重要な建物」と評価する。

 市は、高層ビル建設を計画するBブロック再開発組合に旧支店の保存活用を要請。組合がモニュメント保存などを検討するが、結論は出ていない。再開発事業の法的手続きが終了する秋に建物の取り壊しが始まり、来年3月にビルは着工。15年度の完成を目指す。

 呉服卸店を畳んだ後も住居部分で暮らす所有者の松元洋子さん(70)は、山陽中1年だった兄公(ひろし)さん=当時(14)=を原爆で失った。爆心地から1・2キロの雑魚場町(中区)で建物疎開作業に動員されていた。

 母が幼い松元さんを連れて焼け跡を歩いたが遺骨は見つからなかった。「母は仏壇に水を欠かさなかった。最期に飲みたかったはずと」。その母も99年、86歳で亡くなった。

 被爆建物の取り壊しは時代の流れと受け止める。「どうするかは組合に一任している」と松元さん。にぎわいを取り戻すための再開発。消えゆく被爆の痕跡。そのはざまで、67年目のあの日を迎える。

広島市の被爆建物
 市が登録するのは爆心地から5キロ以内の88施設。国や市、独立行政法人など公共機関の所有が20施設、民間が68施設。爆心地から2キロ以内は、平和記念公園レストハウス▽広島アンデルセン▽旧日銀広島支店▽本川小の一部―など17施設しかない。

(2012年8月5日朝刊掲載)

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